2018年2月18日日曜日

マルコによる福音書第1章9から15節「時は満ちた」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これが、マルコの伝える主イエスの第一声です。選挙でも、党首がどういう第一声を上げるか、だれもが注目します。マルコも主のどのお言葉を伝えるべきか、丁寧に考えたことでしょう。主イエスの宣教の言葉の象徴的な表現をここに伝えています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」時は満ちました。これは、10時になったからクリエイトが開店します、というのとは少し違います。時が充満した。神の国が来るべき時がもう満ちあふれて、私たちのところにまで及んできている。だから、神の国は近づいたというのは、もうここまで来ている、ということです。少し近くなったけどまだ遠いというのではありません。神の国はもうここに来ている。主イエスはそう宣言なさいました。これが、私たちが聞いて信じ、それによって救われた福音です▼今日、教会員総会を予定しています。去年一年間の歩みをふり返ります。2017年という年は私たちにとって何を意味していたのでしょうか。そこに見える神の恵みを信仰の目を開いて数え、また、私たちの使命を確認したい。私たちは主イエスと共に福音の言葉を宣教するためにこの世界に遣わされているのです。主イエスは、今、私たちの間で宣教しておられます。私たちも共にそれに仕えます。コリントの信徒への手紙一を読むと、福音、つまり十字架の福音の言葉は世の人々には愚かに聞こえると言います。しかし、教会はその愚かさに徹することで生きます。主の手となり足となって、私たちは福音の言葉を宣教するのです▼主がその到来を宣言された神の国とは一体何か。主はおっしゃいました。「悔い改めて福音を信じなさい」と。悔い改めるというのは、方向転換することです。これまでの生き方と向きを変えるということです。悔い改めて、神の国の方を向いて生きろと主はおっしゃいます。これまで、私が、神の国が来たことを無視して生きてきたからです。世界中にたくさんの国があります。牧師館のお風呂に子どものための世界地図が貼ってあります。国と国との境界線を巡る争いは、殆ど人類の時間と同じ長さ続いたのではないかとさえ思います。私たちの国だって現在も領土問題を抱えています。国だけじゃない。私たち個人も自分の領域を増やしたい。CMを見れば、私たちが持っているものではいかに足りないのかを丁寧に教えてくれます。物欲を刺激し、自分には健康も若さも足りないと教わります。私たちの「増やしたい、拡張したい」欲求を駆り立てます。しかし、主イエスは生きる向きを変えて神の国の方に行き直せとおっしゃいます。忘れられないのは、これが洗礼者ヨハネが授けた悔い改めの洗礼をお受けになった方の言葉であることです。イエス様ご自身は神さまの子ですから、洗礼を受ける必要はありません。私たち罪人の一人になるために洗礼をお受けになった。洗礼を受けたとき、主は天から響く神の御声を聞かれます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。そして、神ご自身の霊に強いられて荒れ野へ行かれる。主イエスの歩みは、領域を増やし拡張するのではなく、むしろどんどん小さくなっていかれます。主イエスは神の御支配(神の国)を受け入れることを、身をもって私たちに教えてくださいました。私たちはこの神の国の福音に愚かなまでに固執して、ここに救いがあると信じて、宣教に仕えていきます。   

2018年2月15日木曜日

詩編第108編「神さま、救ってください」


「どうか我らを助け、敵からお救いください。人間の与える救いは空しいものです。」神こそ私を救ってくださるお方。それが私たちの信仰だ。人間の与える救いに私たちは生きない。しかし、世の誘惑は多い。何に心を傾けて生きるのか、識別を必要とする。「神よ、私の心は確かです」と告白する詩編作者は神賛美に心を向ける。天に心を向ける。敵がいる。脅威である。それでも誘惑を却け、主の救いの宣言に耳を傾ける。主の救いを待ち望む。

2018年2月11日日曜日

詩編第139編「夜も昼も共に光を放ち」

主なる神さまが私を極め、私を知っていてくださる。私のまことの父として、私を神の子として、知っていてくださる。それが神を信じる者の喜び、慰めです。神さまは私のすることなすこと、心の思いまでも、すべてを知っておられます。一粒のちりのような私のことを、その髪の毛の一本も、神さまは知っておられます。見張られているみたいでイヤだ、と思うでしょうか?お風呂に入っているときもトイレにいるときのことも知っているのだとしたら、さすがにちょっと…と思う人もいるかもしれません。でも、ある意味そうなのです。親は小さな子ども下の世話だってします。全部見るし、子どももそのことを恥ずかしいとは言いません。そこに、信頼と愛情があるからです。しかし、そうは言っても人間の親は不完全です。子どものことだって分からない事がたくさんあるし、子どものためにしていると言ったって実は身勝手な動機でしていることもいくらでもあります。「私の道(3節)」は迷いの道だし、「私の舌(4節)」が語ることは本来言うべきではないようなことばかりです。でも、そんな私であることをすべて知って、私を極めて、その上で神は私たちをご自分の子どもとしてくださいました。「どこに行けば、あなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と言っています。この「霊」という言葉は「息」という意味もあります。神さまのみ顔は近い。息がかかるくらいに。例え天に上っても、あるいは陰府に身を横たえても、そこでも間近に神さまの御顔があって、その息吹は私に届きます。闇の中でさえも、神は私を見ておられます。陰府というのは、死の世界です。詩編第88編などにも出てきますが、陰府というのは、神がおられない全くの絶望の世界です。死の世界です。闇もまた恐怖を生み出す。神の手が届かない場所という思いがします。私たちには、神がおられるのは光の世界、昼間の世界のことであって、それは理想の世界、綺麗事の世界というような思い込みがどこかにあるのではないでしょうか。人間のドロドロした世界のことは、聖書とは違う現実の世界だと考えてしまってはいないでしょうか。この詩編ではどこに行っても神がおられると言うけれど、実際にはどこを探しても神はおられないということのほうがむしろ現実だと…。イスカリオテのユダは闇夜の中に隠れて、イエスを裏切りました。闇の中にある世界で、今のイエスのやり方では通じないと思ったのです。それで裏切った。しかし、ユダの裏切りでイエスが捕らえられ、裁判にかけられると死刑判決が下りました。絶望を深めたユダは自殺しました。暗闇の中に沈み込んでしまいました。主イエスはそんなユダをどうなさるのでしょうか。イエスは、ユダが死んだ数時間後に十字架にかかり、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで死なれました。死んで、墓に葬られ、陰府に降りました。ユダを追いかけるようにして。陰府にも主はおられる。闇にも主はおられる。闇よりももっと深い闇を主は知っておられる。闇も神に比べれば闇とは言えない。昼も夜も共に光を放ちます。主がそこにおられるからです。神はこの私に命を与え、私を形づくってくださいました。親には子どものいのちを造ることなんてできやしない。しかし、神にはできます。その驚くべき御業によって私を究めておられる方こそ、私の真実な救い主イエス・キリストその方なのです。

2018年2月8日木曜日

詩編第107編「主は御言葉を遣わして彼らを癒し」


「苦難の中から主に助けを求めて叫ぶと、主は彼らを苦しみから救ってくださった」と何度も繰り返す。これは私たちの毎日そのものではないか。苦難は17節を見ると「彼らは無知であり、背きと罪の道のために、屈従する身になった」というとおり、我らの罪が招いた結果だ。しかし、主は救ってくださった。御言葉によってである(20)。主に背き、罪に罪を重ねる者になお語り続け、御自分のものとして贖ってくださる方に賛美をささげよう。

2018年2月4日日曜日

マルコによる福音書1:29-34「神さま、この手を取ってください」

今日私たちに与えられた御言葉には、匂いがしています。それは、家族に病気になっているときの空気がこもった匂いであり、外から入ってきた新しい空気の匂いであり、お茶の匂いや夕げの匂いです。これは、日常の匂いがする私たち生活の現場の話です。シモンとアンデレは、主イエスと出会い、網を捨ててイエスに従いました。すぐにイエスと一緒に地元のカファルナウムに戻ります。安息日の午前を会堂で過ごし、シモンの家に行きました。これは、私たちが毎週日曜日に経験していることそのものです。私たちもいつも締めているネクタイをおいて、持ち歩いている鞄を家に残して、毎日使う包丁を残し、箒を家においてここにやってきました。家族と共にここに来られる人はごく少数です。しかし、主イエスはそんな私たちと共にもう一度私たちの生活の現場へと進んで行かれます。「シモン、お前の家に行こう。案内してくれ。」主はそうおっしゃったに違いありません。私たちの毎日へ主は来てくださいます。そして、その家に待ち受けていたのは、熱を出して寝込んでいるしゅうとめでした。主が来てくださったというので、人々はさっそく彼女のことをイエスに話します。そうしたら、イエス様が彼女の手を取って起こしてくださった。それで、彼女の熱が下がった。言ってみれば、それだけのことと言えるかも知れません。大病を治して頂いたわけではない。駅前のクリニックでもできることです。しかし、これは、病が治ったということ以上に主イエス・キリストとの出会いの出来事でした。イエスを信じて従い始めたシモン。主が、シモンを主に従う者として日常生活の中に戻してくださって、そこで再開した家族の熱。手を取っていやし、主は彼女とも出会ってくださった。主は私たちの日常生活の中で私たちと出会いたいと願っていてくださるのです。そんな私たちの現場で主がしておられるのは、一体どういうことなのか?今回、聖書を読んで気付いたことがあります。この話の後半には、悪霊にとりつかれた人たちを主がいやしてくださいます。直前の話、21から28節は汚れた霊に取りつかれた人のいやし、更に次の段落の39節でも、「悪霊を追い出された」と言っています。ずいぶんと、イエス様は悪霊と戦っておられるのです。悪霊、それは時代の精神とも言えます。今の時代のテレビなどを覆い尽くす裁きの心などはその典型例であるのかもしれません。薬物報道や不倫報道が最近も相次いでいますが、眺めている者の裁きの心以外の何を満足させているのでしょうか。シモンのしゅうとめは熱をいやして頂きました。私たちも、罪という熱病をいやして頂かないと、どうしようもないのです。彼女はいやされて、一同をもてなしました。この「もてなす」は特別な言葉です。主イエスはやがておっしゃいます。「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来た」と。この時代の精神から言えば、仕えられる人は使える人よりも偉いのです。しかし、彼女はその時代精神から解放されて、喜んで一同に仕えました。熱病から解放されたからです。この仕える人生は、この時だけではなく、ずっと続きます。十字架の下にいた女性たちは「イエスに従ってきて世話をして」きました。仕える自由を喜んでいきました。渡した対の生きている現場、生活の匂いがする場所で、私たちはキリストに仕え、共に生きる者に仕えます。そのために、私を日ごとに熱病からいやしてくださいと祈ります。   

2018年2月1日木曜日

詩編第106編「祖先の罪を告白する」


105編と同じようにイスラエルの民の歴史を想起するが、この詩編の独自性は想起するのが罪の歴史であることだ。数々の信仰者の過ちが告白される。自分と関係のない者を安全地帯から非難しているのではない。わが歴史として罪を告白するのだ。神に背いてきた歴史を直視するとき、知る。「主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こし・・・」。歴史における罪の告白。私たちも同じ課題を背負っている。

マルコによる福音書第1章9から15節「時は満ちた」

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」これが、マルコの伝える主イエスの第一声です。選挙でも、党首がどういう第一声を上げるか、だれもが注目します。マルコも主のどのお言葉を伝えるべきか、丁寧に考えたことでしょう。主イエスの宣教の言葉...