2017年10月15日日曜日

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の11月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼拝で読むために書かれたものです。ヨハネの時代は混沌としていました。迫害の中に生きていました。聖書の最後のヨハネの黙示録も、あるいは最初の創世記も、混沌とした時代を背景にしています。今朝の聖書の御言葉は、混沌とした地に神が御言葉をもって光をお造りになりました。混沌の中で神の言葉を聞き、神を礼拝する。創世記も黙示録も同じです。私たちも同じです。日本も、世界も、混沌としています。遂に日本やその周辺で戦争が始まってしまうのでしょうか?日本は積極的に戦争に参加するのでしょうか?そうでなくとも、私たちの社会は崩壊してしまいやしないのでしょうか?「光あれ」という神の言葉は混沌の中に響きました。そして、混沌に光が射しました。世界は神の言葉を必要としています。私たちは今この礼拝で、その言葉に耳を傾けているのです。ヨハネによる福音書の冒頭にはこのように書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」暗闇と聞かされて、ヨハネの手紙の一節を思い起こしました。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます。」これは他ならない私たちの話です。今、私は、実は闇の中にいるのではないか?目の前にいる兄弟を姉妹を愛せていない。簡単に他人を評論する私。あるいは、私たちが生きるこの社会は?隣国との間でも、同胞同士の間でさえも、憎しみに満ちています。それは暗闇だと聖書は言うのです。歌手のアンジェラ・アキさんが「手紙」という歌を作られました。15才の自分と大人になった自分との手紙のやりとりを歌ったものです。15の自分が問います。「負けそうで、泣きそうで、消えてしまいそうな僕は、誰の言葉を信じ歩けばいいの?」すると大人の自分が答える。「ああ、負けないで、泣かないで、消えてしまいそうなときは、自分の声を信じ歩けばいいの」。いい歌です。アイデンティティを形成する青春の危機を描く力が本当に素晴らしいです。確かに、周りの声に惑わされずにしっかりと自分に向き合うことにかけがえのない意味がある時期です。少し文脈が違いますが、改革者ルターがこころを病んでいる人への慰めの手紙にこのように書きました。「まず第一に大切なことは、この方が、自分自身を基礎として立つということのないようにということです。自分について自分が何を感じているかということによって振り回されないことです。そうではなくて、御言葉をしっかりと捉え、神の名によって自分に語られていることをしっかりと大切にしてください。」ルターは自分のアイデンティティを確かめたり自分の内なる声に耳を傾けること以上に、自分の外から語りかける神の声に耳を傾けることが大事だと言います。自分の中で不確かで危うくなっている基盤を、自分の外、神の言葉に置くように説得するのです。私がどんなに暗闇で、例えこの世界が暗闇でいることを正当化していたとしても、キリストは光で、私たちを光で照らし続けてくださる。それが我らの基盤です。 

2017年10月12日木曜日

詩編第90編「自分の儚さに震える者の祈り」


夫は妻がいるから夫だし、逆も然り。親は子がいるから親だ。立場は関係で決まる。しかし、「大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」。神は神なのだ。私たちは儚い。神の怒りの前に絶えてしまう(7)。人生も短い(10)。神が怒って捨てておかれるなら、滅んでしまう。「主よ、帰って来てください」(13)。ひたすらにそう祈る。私は神あっての私なのだ。造られた者としての自己を、神の御前で見いだすのだ。

2017年10月8日日曜日

ガラテヤの信徒への手紙第2章19bから20節「生きる」

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」何と圧倒的な福音の言葉なのでしょうか。まさにこれこそ神が私たちに下さった福音です。神の子が私を愛し、私のために身を献げてくださったのです。この世界を造って、この私に命を与えて、今も世界を支配している神がこの私を本当に御自分の身を献げるほど愛してくださったのだとしたら、それは究極的な救いです。もしもそうであれば、他の誰が何と言おうと私は救われている。改革者ルターはこの言葉を愛しました。彼は言います。「『私を』『私のために』という言葉を大きく強調して読み、この『私を』をたしかな信仰をもって受け入れ、これを自分に当てはめることに習熟するがよい。」面白い言葉です。「習熟するがよい」と言います。ルターはまことに牧師らしく、私たちがなかなか信じられずについ恐れてしまうことをよく知っているのです。恐れていませんか?毎日の生活のために、誰かに非難されているために、自分にふりかかる現実のために。恐れと信仰は両立しません。神がこの私を愛してくださっている、キリストはこの私のために十字架にかかってくださった。それが神からの答です。だから、私たちは信じることに習熟して、大胆に信じましょう。神の子がこの私を愛し、この私のために御自分を献げて十字架にかかってくださったことを。そうであるからこそ、私を恐れさせる「現実」と思い込んでいるものを吹き飛ばすような神の圧倒的な力を。ルターの父親は彼のことを法律家にしたかったようです。しかし、青年ルターはあまりその気になれなかった。これからの自分の人生に悩んでいたとき、たまたま、すぐ近くに雷が落ちるという経験をした。危うく死にそうになった。彼は祈った。「助けてください、修道士になりますから!」その後、彼は親の反対を押し切って修道士になりました。死を前にして生き方を変えた。しかし、彼は修道士として祈りの生活をしながらも、心が晴れませんでした。聖書を学べば学ぶほど、神の義に押しつぶされそうになった。どうしたって自分が神に救われるとは信じられない。自分の生き方を真剣に問い、悩み、つぶれそうになっていました。彼は詩編を読んでいた。第71編にラテン語訳で「あなたの義によって私を救ってください」という言葉があった。塔の一室でそれを読んだルターは、これはキリストのことを言っていると気づいた。これは私が功徳を積んで立てる義ではない。キリストが私を義としてくださる。そう知ったとき彼の世界が変わりました。私の正しい生き方が私を救うのではない。キリストがこのどうしようもない私を救ってくださる。それからルターは生涯その信仰に生きました。神は、他でもないこの私を愛してくださっている、と。信じることには習熟が必要です。自分なんかダメだという声が響いたり、その逆に、自己正当化して周りに問題があると呟いたり。私たちの心はとかくやっかいです。でも、そういう古い私は、もうキリストと共に十字架にかけられて死にました。洗礼を受けたとき古い自分は水に沈んで死んだのです。今生きているのは、あなたの内に生きるキリスト。あなたを生かすキリストの真実を、大胆に信じてください。 

2017年10月5日木曜日

詩編第89編「神様、助けてください」


主の慈しみを賛美する。しかし私たちは主を裏切った。「それでもなお、私は慈しみを彼らから取り去らず」と主は約束してくださった。ところが、「あなたは、御自ら油を注がれた人に対して激しく怒り、彼を退け、見捨て」た。そう嘆く。主の慈しみはもう取り去られたのか?嘆きつつこの信仰者が訴えるのは、人間のむなしさ、はかなさを思い出してくださいということ。そうでなければ滅びてしまう。これは心貧しき者の祈りの言葉なのだ。

2017年10月1日日曜日

コリントの信徒への手紙一第9章19節「自由」

15171031日にマルティン・ルターという修道士がヴィッテンベルク城の教会の門扉に95ヶ条からなる公開質問状を張り出しました。やがて、その日はプロテスタント教会から宗教改革記念日と呼ばれるようになりました。教会改革のうねりは国境を越え、欧州全体に飛び火し、更に歴史を変える大事件になりました。私たちの教会も、この教会改革運動に端を発する「長老教会」の伝統に生きています。今月でこの改革から500年を数えます。「改革」と言うからには過去のエピソードになってしまった時点で意味を失います。改革は常に「今」のことでなければ仕方がありません。今、私たちが聖書の言葉によって絶えず改革され続ける教会であるためにも、今月はルターの信仰に学んでいきたいと思います。今日は「自由」を主題とします。1520年にルターは『キリスト者の自由』という名著を書いています。岩波文庫でも出ています。ぜひお読みください。このような命題から始まります。「キリスト者はすべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも服しない。」神を信じる者は自由だと言います。フト立ち止まって考えます。私たちは、神を信じてまで自由になりたいと思っているのでしょうか?あるいは、神なんて信じたら却って不自由になると思ってはいないでしょうか?今度、選挙が行われることになりました。もちろん、私たちは誰にも投票行動を監視されることもなければ、誰かに投票するように強制されることもありません。自由です。しかし、もしも私たちが空気や雰囲気で決めたり、候補者の考えの意味を良く吟味もせずに行動を起こしたら、それは本当に自由な選択と言えるのでしょうか?「真理はあなた方を自由にする。」主イエスはそう言われた。やはり、真理であるキリストと自由とは無関係ではないのではないか。キリストがくださるという自由とは一体どういうものなのか。今日の御言葉はルターが『キリスト者の自由』の冒頭で掲げているものです。「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。」ルターはあの命題に続けて、すぐに第二の命題を掲げます。「キリスト者はすべてのものに仕える(ことのできる)僕であって、だれにでも服する。」なぜか?できるだけ多くの人を得るために。私たちは自由です。キリストが自由にしてくださいました。何を食べても飲んでも自由です。自由だから、例えば仏式のお葬式に行けばお焼香をする自由もあります。しかし、今日の聖書の言葉の文脈で言われていることは、私は何においても自由だけど、弱い人が私のその自由な振る舞いを見て躓いてしまうのであれば、私はその自由を行使しないという話です。私は自由、他の人のためのその自由をストップできるほどに自由。そう言うのです。できるだけ多くの人を得るために、私はだれの僕にでもなれる、そういう自由に生きている、と言うのです。それは、キリストが私のために、僕になってくださったからです。私は、どうしたって自分の自由を自分だけのものにしておきたい。時間も、お金も。それは恥ずかしいほどの気持ちです。でも、キリストがくださったものは時間どころじゃない、お金どころじゃない。御自分の命さえその自由のゆえに与えてくださいました。それが私の原点です。このキリストが私を同じ自由に生かしてくださる。それが、キリストがくださる自由、他者のために生きる自由です。   

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...