2017年8月17日木曜日

詩編第82編「地の基は揺らいでいる」


「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正しさを蔑ろにし、弱い人、貧しい人を見捨ててはいないか。それがこの社会の現実だと、自己責任だと嘯いてはいないか。神の裁かれることを恐れを持って思い起こそう。

2017年8月13日日曜日

詩編第148編、ヘブライ人への手紙第11章1から3節「見えないものでできている」

アジア青年交流会(AYG)が月曜日に終わりました。先週の日曜日には香港、韓国、カンボジア、コロンビア、日本からの参加者がさがみ野教会の礼拝に来てくださいました。海外からは総勢62名。皆で神さまを賛美する歌をうたい、聖書の言葉に耳を傾け、お互いを語り合い、耳を傾け合い、楽しく遊び、とても素晴らしい大会になりました。神さまが造られた世界は広いとつくづく思います。アジアにもいろいろな歴史や文化を生きる人が大勢います。生活の場所も状況もぜんぜん違う。でも、同じ神を信じるということにおいて、私たちは一つです。私たちが共有するただ一つのものである「信仰」について、今朝与えられた御言葉にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」望んでいるのですから、まだ現実にはなっていません。しかし、現実がどんなにそれに逆らっていても怯まずに確信する。それが信仰です。この「確信」と翻訳されている言葉を「確信」と訳したのは、マルティン・ルターであったそうです。それまではむしろ「基礎」と訳されていました。ルターはヴァルトブルクというところに幽閉されているときに聖書をドイツ語に翻訳しました。その時、この「確信」という言葉の訳語がなかなか決まらなかった。友人のメランヒトンのアドバイスで「確信」と訳したそうです。ルターやメランヒトンが信仰をぶっつけているようなエピソードです。ただ、この単語は確信のような心の動きだけを意味しているだけではなくて、客観的な意味合いもあるそうです。もとの意味は「何かの下に据える」です。土台のようなものです。それで、ルターの時代に流通した基礎という訳語も付された。基礎と確信を会わせたような「保証」という訳もあります。さがみ野教会の教会堂は四本の重量鉄骨の柱が支えています。設計された方は、この地域でいちばん頑丈な建物だとおっしゃっていました。同じように頑丈で堅牢な土台に支えられています。信仰という土台です。信仰は望んでいる事柄の保証なのです。希望を失いかねないこの世界で、私たちは今抱いている信仰を保証として神に与えられているので、なお望みを失わずに確信するのです。AYGに参加した青年たちは、信仰に基づく望みを抱いていました。政情が不安定なところもあります。本当に貧しいところで伝道している人がいます。しかし、皆、遙かに仰ぎ見る天の故郷に帰る日のことを望んでいます。今週、815日を迎えます。折しも日本の上をミサイルが飛ぶかもしれない、そしてそれを迎撃する準備をしているなどというニュースが流れています。これからどうなるのか。何があろうと私たちは望みを捨てません。私たちが今こうして神を信じていること自体がその信仰の保証です。この世界を造った神が生み出してくださった兄弟や姉妹が私たちにはいるのです。信仰者は知っています。この世界は神がお造りになったのだということを。神が造られたのであれば、私たちには生きるべき目的があるのではないでしょうか。ジャン・カルヴァンという人は、私たちの生きるべき目的は神を礼拝するために神を知ることだと言いました。神を礼拝し、賛美するために、私たちは生きている。全ての造られた者よ、共に神を賛美しよう。神の御前にひれ伏そう。神に身をかがめるときに私たちは共に生きる喜びを発見する。私たちは希望を失いません。神を信じているからです。   

2017年8月10日木曜日

詩編第81編「喜べ、我らを救う神を」

「私は思いがけない言葉を聞くことになった」という一句が心に残る。いかなる言葉か?それは神が我らの重荷を除き、苦難から救ってくださったこと。しかし神の声に聞き従わず、心頑なにしてきたこと。それでも神は「イスラエルが私の道に歩む者であったなら」と呼びかけてくださっていること。これは思いがけない言葉。主は最良のものでこんな私を養おうと待っていてくださる。私に立ち帰れ!と祝福の意志を抱いてくださっている。

2017年8月6日日曜日

マタイによる福音書第14:13-21「食べて、満腹。このすばらしい時間!」

先週の木曜日からアジア青年交流会(AYG)が開かれ、香港、韓国、フィリピン、L国、カンボジア、日本の青年たちが代々木に集結し、そこで出会い、心を合わせて神を賛美し、お互いの課題を知り、お互いのために祈っています。ほんの10日ほど前まで、全員が来られるかどうか分かりませんでした。それだけに、一堂に会している青年たちの姿は、もうすでに神が起こしてくださった奇跡であると思います。AYGのテーマとする聖書の言葉は今朝の招きの言葉と同じです。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。(詩編133:1)」神を信じて、お互いを「兄弟、姉妹」と呼ぶ者たちが共に座っている。何という恵みでしょうか。カンバーランド長老教会は今から207年前に米国南部の田舎で生まれました。設立後41年で既に最初の宣教師を海外に派遣しています。爾来、数多くの宣教師が海を渡り、アジアにもカンバーランドの教会がたくさんあります。その姉妹教会の青年たちが今朝こうして共に座っている光景は、神の恵み、神がくださった喜びです。金曜日にはワークショップを行い、互いの課題や宣教の取り組みをシェアしました。日本は今でもキリスト者の割合は人口の1%以下です。日本の中では超マイノリティです。数十年前はもう少し状況が違いましたが、残念ながら今のキリスト教会が日本社会やその価値観に与えるインパクトは、ほとんど皆無です。神に申し訳なく、慚愧の念に堪えません。しかも、それはカンバーランドだけではなく、日本のほとんどの教会の現状です。弟子たちは主イエスの後についていって、人里は離れた所にいて、そこにはやはり主の後を追ってきた大勢の群衆がいました。彼らはそこで自分たちの無力に悩んでいたのではないかと思います。主イエスは深い憐れみをもって人々をいやし、人々も主イエスを必要として集まって来ます。そんな大群衆を見て、無力感に襲われたのではないでしょうか。こんな人里は慣れたところではなく、もっと別の場所なら。自分たちにもっと力があれば、お金があれば、もっと良い事できたのに・・・。だから、彼らはお腹を空かせた群衆を見て、主イエスに、彼らを解散させてくださいと進言します。そうすれば、村に行って食べ物を自分で調達できましょう、と。しかし、主イエスは「行かせることはない」と言って、あなたたちが食べ物を与えたらいいとおっしゃる。そんな話はむちゃくちゃなのであって、彼らは言うのです。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」もしもここじゃないどこかなら。もしももっと蓄えがあったら。もしももっと献金が、もっと人が・・・。もしも○○があったなら。弟子たちはそうつぶやきました。ここにはこれしかない、と結局は神のせいにする。それは私たちにもよく分かる気持ちではないですか?しかし、主イエスは驚くべき事をおっしゃいます。「それをここに持って来なさい。」ここ、つまり主イエスのもとへ。主がおられるところで、新しい、素晴らしいことが起きる。イエスはそう言われるのです。私たちの発想は、「ここにはこれしかない」です。しかし、主はそれをわたしがいるここへ持ってこいと言われる。そして、その小さなパンで5000人を養われました。私たちは小さいけれど、神が用いてくださるとき、素晴らしい物語りが始まります。それを共に経験する兄弟や姉妹が隣に座っている。それは何という恵みであり、何という喜びなのでしょう。 

2017年8月3日木曜日

詩編第80編「わたしたちはあなたを離れません」


「万軍の神よ、立ち帰ってください。天から目を注いでご覧ください。このぶどうの木を顧みてください。」このぶどうの木は神ご自身がエジプトから移し、植えてくださったと訴える。ぶどうの木は枝を広げ、多くの実を結ぶ。地に根付き、手入れする者がいれば。だから神に祈りつつ、神の怒りを思いながら祈る。「私たちはあなたを離れません。命を得させ、御名を呼ばせてください。」このけなげな祈りを神はお見捨てにならないのではないか。

2017年7月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章18から31節「愚か者になろう」

アレテイアという説教者のための雑誌があります。今年の冬にクリスマスの特集を組んだ増刊号を出すということで、寄稿しないかと声をかけてくださいました。説教のための黙想の文章です。マルコによる福音書1:1-8を、アドベントの御言葉として聞き取る黙想を求められまして、今、勉強をしています。洗礼者ヨハネが登場する場面です。いろいろな本を開いてみましたが、改革者マルティン・ルターの小さな文章が心にとまりました。「キリストの恵みを獲得するのにふさわしい者となるために、人間は自分自身に徹底的に絶望しなければならない。」私の心に刺さりました。刺のようにささっていて、どうしたら良いのか分からないところもあります。自分自身に絶望する、しかも徹底的に絶望する、と言います。私は、自分に絶望しているのだろうかと思います。何に絶望するのか。今、毎朝、早天祈祷会の奨励のために御言葉を読んでいます。聖書を読みながら痛感しないわけに行かないのは、自分の愛の欠落です。毎朝こうやって御言葉に触れているはずなのに、どうしてということを今一度真剣に考えないわけにはいかない。忙しかったり、疲れていたり、言い訳は色々あります。しかし何と言いつくろっても、愛することから遠い自分の言動を見るにつけうんざりします。主イエスがお求めになったように、自分を愛するように隣人を愛することができていません。しかし、なお私は思わないわけにはいかない。自分自身への徹底した絶望を私は知っているのだろうか、と。むしろ、本当に絶望することを知らないのではないか。ナチへの抵抗に生きたボンヘッファー牧師は言います。「あなたは罪人、救いようのない大罪人である。しかし、あなたを愛している神のもとへ、ありのままの罪人として来なさい。神はありのままのあなたを望んでいるのである。しかも神は罪人に祝福を与えるためにすでにあなたのもとに来てくださった。大いに喜びなさい。」だから、神さまの前では、取り繕ったり格好つけたりするのは、間違っていたのだと思います。どうしようもない罪人であることに徹したらいい。神を求めてもいないし、神を知ろうともしていない私であることに。どこかで罪に絶望する私を演じようとしていたのだと思います。私はそれどころではない大罪人。救われようがない。他の何者でもありません。私たちの信じるキリストは十字架の上で殺されました。呪われて、捨てられて死にました。世の知恵からしたらバカな話です。どうして、犯罪人の一人と言われた男の処刑が私を愛の破綻から救いうるのか?そこには、何か確かな証拠やしるしはありませんし、理路整然とした説得的なせつめいもありません。かえって、神は、宣教の愚かさによって信じる者を救おうとなさいました。この「宣教」というのは、「説教」とも訳せる言葉です。それなら私にもよく分かります。わたし自身たくさんの説教を聞いて、信じたからです。私の心に語りかけてくれたたくさんの言葉やそれを語る存在によって。あるいは、「宣教」は「宣言」と訳すこともできます。あなたを愛してくださったキリストによって、あなたは神の怒りから救われた。この方が私の身代わりになって十字架にかかってくださった。私を生かすこの福音を、今日、私も愚かになって宣言します。   

詩編第82編「地の基は揺らいでいる」

「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正し...