2015年1月25日日曜日

マタイによる福音書11:2-6「分からなくなったら尋ねればいい」


「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」主イエスはおっしゃいました。あなたたちはこれらの出来事を見ているでしょう、これが救い主があなたたちのところに来たしるしなのだ、と。これらの出来事は、実際に今私たちが見聞きしている出来事ではないでしょうか。私が神学生の時に研修させて頂いた教会に聾者のご夫妻がおられました。この教会には毎週礼拝の時に通訳という奉仕があり、ご夫妻それぞれの隣に座って、説教中に原稿を指しながら実況を伝えます。また、ご夫妻とコミュニケーションをとるために何人もの教会員が手話を学ばれました。耳の聞こえない人が聞こえるようになる奇跡がそこには起きていました。何より大切なことは、この出来事を通して、ご夫妻も教会の人々も主イエス・キリストに出会われたということです。「貧しい人は福音を告げ知らされている」という言葉もあります。この「貧しい人」という単語は物乞いをしないと生きていかれないほどの絶望的な貧しさを意味します。本来は誰にも傷つけられてはならない人間としての尊厳まで奪われた人、ということでしょう。一番悲しみ、絶望し、傷ついている人に福音が届けられたのです。もしかしたら、その「貧しい人」というのは、洗礼者ヨハネ自身の事なのかも知れません。今ヨハネは牢に捕らえられていて、そこから自分の弟子をイエスのところへ遣わし、「来たるべき方はあなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねます。ヨハネには神様が分からなくなってしまったのです。ヨハネが期待していた神様は、悪者を裁き、正義を実現してくださる神様でした。しかし、現実はそうではなく、自分は不当にも牢につながれています。分からなくなりました。どうしてこんな悪がまかり通るのか、なぜ神はこれを許しておかれるのか。疑い、迷い、落胆してしまいます。彼は私たちと似ているのです。彼は決してヒーローなのではなく、私たちと同じで分からなくなってしまう人なのです。そんな思いで「来たるべき方はあなたでしょうか」と尋ねるヨハネに、主イエスは答えられます。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え・・・。」私たちは気づくのです。私の周りにはこの言葉の通りにイエスと出会い、救い主と出会った多くの証人がいる。私は分からなくなり、落胆し、恐れることがある。しかし、こうして絶望するしかない所にも来てくださる方がいる。例え見えずとも、神の固い守りが確かにあなたを囲んでいるのです。

2015年1月21日水曜日

詩篇第119編17から24節(ギーメル)

(私訳)
17 報いてください あなたの僕に 私は生きたい
  そして私は見つめたい(守りたい) あなたの言葉を
18 覆いを取ってください 私の両目の そして私は見たい
  驚くべき事々を あなたの律法から

19 よそ者 私は この地において
  ない 私に隠してください 私から あなたの戒めを
20 砕けた 私の魂は 切望へ
  あなたの裁きに向かって 全ての時において
21 あなたは責めた 誇る者らを 呪われた者らを
  踏み誤る者らを あなたの戒めから

22 取り除いてください 私の上から 恥を そして 侮辱を
  なぜなら あなたの定めを 私は観た(守った)
23  また 座った 王子らが 私に向かって 彼らは言った
   あなたの僕は 黙想する あなたの掟を

24  また あなたの定めは 私の楽しみ 人々 私の会議

この詩編の構成
この詩編は三部に分けられる。1718節には「報いてください」、「覆いを取ってください」という二つの命令形が出てくる。そして、どちらにもそれに続いて願望形の動詞が出てくる。第Ⅰ段落は祈りのことばである。次の第Ⅱ段落は19節と21節に同じ「あなたの戒め」があり、段落の枠を作っている。そして、最後の第Ⅲ段落は22節と24節に「あなたの定め」が登場して枠を作る。
この詩編の主題
これら三つの段落の全てに「見る」ことを内容とする語が登場している。また、第Ⅰ段落と第Ⅲ段落に共通して「あなたの僕」とある。この詩編はあなたの僕である「私」に主の言葉を見せてくださいと祈る。そこに主題が込められている。
第Ⅰ段落
あなたの僕に報いてください、私の両目の覆いを取ってください、と祈る。それは主の言葉を見つめ、主の律法の驚くべき事を見たいからだ。この「驚くべき事」は人の力を超えた力を指す。ゼカ8・6では人にとっては驚くべき事も神にとってはそうではない。そのような驚くべき神の律法の力を見たいのだ。
第Ⅱ段落
それは苦しめられているからである。誇る者、呪われた者、主の戒めを踏み誤る者が主の僕を苦しめる。私の魂は砕け、切望する。この「魂」はネフェシュで原義は「喉」で、渇きと結びつく。更に渇いて水を求める人の切望、或いは求めに特徴付けられる人間存在を表す。苦しめられ、砕かれ、めちゃくちゃにされた詩編作者は、「あなたの戒めを私から隠さないでください」と祈る。
第Ⅲ段落
これまでは見せてくださいと祈っていたが、ここに至って「私は観た」と言う。恥と侮辱の中で主の定めを観たのだ。王子の権力や傲慢に遭っても主の掟を黙想し、楽しみ、主の定めによって行く道を決める。
この地のよそ者として
19節に「私はこの地のよそ者」とある。外国人というより、主の律法に生きると必然的によそ者になる、ということだろう。よそ者はめちゃくちゃにされてしまう。イエスは「心の貧しい人々は、幸いである」と言われた。この貧しさは謙遜さではなく、めちゃくちゃに砕かれた者のことだ。天の国はその人たちのものである。主が教えられる幸いだ。

2015年1月18日日曜日

マタイによる福音書9:35-10:15「天の国の福音を携えて」

「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありたあらゆる病気や患いをいやされた。」主イエス・キリストにとって、病気や患いの苦しみはどうでもいい事ではありません。この様子を見て「深く憐れまれた」ともあります。「憐れむ」とは、自分自身の内臓までも痛む感情です。高みから見下ろしているのではないのです。主は病み、患う苦しみに喘ぐ人に御国の福音を宣べ伝え、彼らをいやされました。彼らにとって決して絵空事ではない福音の言葉を伝えてくださったのです。第108節を見ると、主イエスはご自分のなさったことを弟子たち(教会)に引き継がせて、「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」と言われます。病、死、そして重い皮膚病。この病はただ肉体の苦しみだけではなく、徹底的な隔離と差別の対象になっていました。社会から投げ捨てられる屈辱、孤独、悲しみを嘗めていたのです。そして、この社会には悪霊の働きと言わなければならない深みがある。1節でも、弟子たちを遣わされるときに「汚れた霊に対する権能をお授けに」なりました。現代にも悪霊の働きが見られます。病む人は社会からも自分自身からも見捨てられたような思いを味わいます。その背景には、現代社会の拝金主義とも言える、精神を失った資本至上主義があるように思います。生産性を失った人間の居場所を残さないのです。或いは、今の日本はとても不寛容です。とてもイライラしています。特に隣国に対して。先日のフランスのデモに至った「風刺画」の問題も、根は同じように感じます。異質な他者を理解する努力を放棄してはいないでしょうか。このような時代精神を形づくっているのは一体何者なのか。このようなところに人間の力を超えた力を見るのです。主イエス・キリストは弟子たちを派遣するに当たり、言われました。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。」天の国、つまり神の御支配が近づいた、もうすぐそこにある。だから、あなたは悪霊に支配されているのではない。あなたを憐れむ神が、弱り果て、打ちひしがれた羊の群れのようになったあなたたちを養い、牧者になってくださる。私たちの周囲には、たくさんの打ちひしがれた人がいます。「打ちひしがれた」というのは、床に投げられたという意味です。必要ないと捨てられたのです。しかし必要ないというのは本当は嘘なのです。例えこの時代の精神が価値無しと断じても、あなたはキリストのもの!私たちはこの福音を宣べ伝えるために、ここから遣わされます。平和を届け、私たちもまた内臓を痛めて、天の国を宣言するのです。

2015年1月14日水曜日

詩編第119編9から16節(ベート)

(私訳)
9 どのようにして 清く保つのか 若者は 彼の小道を
  守ること あなたの言葉の通りに

10 すべての私の心において 私はあなたを捜し求めた
  ない 私を踏み誤らせてください あなたの戒めから
11 私の心において 私は隠した あなたの仰せを
  ように ない 私が罪を犯す あなたに

12 祝福された者 あなたは 主よ 私に教えてください あなたの掟を

13 私の唇で 私は物語った すべての 裁きを あなたの口の
14 道を あなたの定めの 私は喜んだ 上のように 全ての宝の
15 あなたの命令を 私は黙想しましょう
  そして私は見ましょう あなたの小道を

16 あなたの掟を 私は大いに楽しみます

  ない 私は忘れる あなたの言葉

この詩編の構成
ベートから始まる第二連は大きく分けて5つの段落から構成される。まず、9節に「あなたの言葉」とあり、同じ表現が16節でも繰り返されている。9節冒頭が問いで始まっていることからも明らかなとおり、「あなたの言葉」を含む9節が導入、16節が結語となる。次に、10節と11節には同じ「私の心において」という表現があり、心の動きを表す。それに対して13から15節には「私の唇」や「私は見ましょう」と口や目の働きが示されている。「心」と「口や目」で対応する。その中心が12節であり、詩全体がキアスムス(軸対応)構造を形づくっている。また、日本語訳ではわかりにくいが、12節以外の全ての節の冒頭の単語は同じ前置詞「ベ」であり、12節だけがそうではない。これも12節が軸になっているしるしである。
Aと(9と16節)
「どのようにして」という問いから始まり、それは「あなたの言葉の通りに守ること」である。そして、その「あなたの言葉」を私は楽しみ、それを忘れないと告白している。従って、若者が自分の小道を清く保つのは主の言葉を守ることによるのだが、それは主の言葉を楽しむことであり、だから掟を忘れることがないのだ。従って、導入と結語で示されるこの詩のテーマは、主の言葉を守る者が楽しみとさえ言いうる主体的な御言葉への関わりである。そういう姿勢で主の言葉を守れば、その小道は清く保たれる。
Bと101113から15節)
ここは更に4つの小段落に分けることができ、前半と後半が対応している。まず、10節は15節と対応する。双方に願望形の動詞がある。心を尽くしてあなたを求めた私を、あなたの戒めから踏み誤らせないでください。そして、私はあなたの命令を黙想しましょう、そして、私はあなたの小道を見よう。心の動きと目の動きを主に向ける。また、11節と1314節では、心に主の仰せを隠す(秘蔵する)が、それは秘密にするためではなく、口で物語り、また喜ぶためだ。このようにこの対応関係では心と口と目と歩みにおいて主の戒め、仰せ、裁き、定め、命令を求め、宝とし、物語り、黙想するという全身全霊を傾ける姿を描ききっていると言える。
C(12節)
中心軸に据えられた12節は主への讃美と祈りである。この連で唯一「主」という神のお名前が登場するのはここであり、しかもここでは「あなた」と主に呼びかけている。この節の動詞「祝福する」は人に対してはこの意味になり、神に対して使われるときには普通「讃美する」と訳される。「主よ、あなたこそ讃美される方」と言っているのだ。また、「私に教えてください」は動詞の命令形であり、祈りの言葉になっている。この讃美と祈りが主の言葉を喜び楽しみ、全身全霊をかけて守る者のまさに「軸」なのである。
祈りのために
主イエスが律法の急所を教えてくださった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにはない。」心に思い巡らし、唇に上らせ、目を向け、主の道を歩む。それは主への愛に生きることに他ならない。主が教えてくださった愛に喜んで生きる者は主への讃美に生きる者なのである。

資料
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詩編第82編「地の基は揺らいでいる」

「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正し...