2015年2月22日日曜日

マタイによる福音書5:1-12「あなたたちは幸い!」


私たちに幸いを告げる主イエスの御言葉、祝福を宣言する御言葉です。この言葉を読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。実は、私は少し戸惑ってしまいました。本当に主イエスがおっしゃることは幸いなのでしょうか?悲しんでいる人に向かって、「あなたは幸いだ、おめでとう」と言うことが許されるのでしょうか?或いは、例えそうだとしても、自分の知る悲しみであれば悲しみは、主イエスがおっしゃる悲しみと同じなのでしょうか?主の御言葉をどう聞けばよいのか、正直に言って戸惑ったのです。言葉を換えれば、どこに福音があるのか見えなかったのです。しかし、気づきました。ここに語られた幸いな者の姿、これは、主イエス・キリスト御自らのお姿に他ならない、と。主イエスは私のために心貧しくなられた方です。狐には穴があり、鳥に巣はあるが、イエスには枕するところもありませんでした。主イエスほど悲しみを知っている者はいません。愛する弟子に裏切られ、父と呼んだ神に見捨てられて十字架にかけられました。平和な日本で柔和は美徳ですが、厳しい社会の中では奪われ、踏みにじられるだけです。主はそういう社会の中で、罵られ、殴られても相手を赦されました。主イエスは病む者や貧しい者の苦しみをご存知です。しかし、それだけではなく、そのような苦しみを生み出す世界の罪の姿を知っていて、嘆き、義を求めて渇いておられます。主イエスはその中で苦しむ私たちの嘆きを変わって負ってくださる、憐れみの方です。この方ほどに一心に神を求める心清き人はいません。この方は暴力に暴力で返さず、復讐せず、その連鎖を止めて、平和を作り出してくださいました。義のために迫害される。これぞ、まさにキリストのお姿そのものです。正しいことのために、キリストは十字架につけられたのです。どれもこれもがキリストのお姿そのものです。だから、この御言葉のどこに福音があるのか、というよりも、むしろ、この御言葉は福音そのものです。そして、キリストは、この福音に私たちを招いておられます。あなたにも、私と同じ心貧しき者の幸いに生きてほしい、悲しむ者の幸いに生きてほしい、・・・、と。先日、友人から電話がありました。彼はとても悲しんでいました。将来のことを思って不安になっていました。彼と話しながら、昨日の研修会で聞いたリサ・アンダーソン先生のお話を思い起こしました。痛む者と寄り添うために、私たちは、希望を捨てずに、諦めずに寄り添い続ける必要があるとおっしゃっていました。希望を与えてやろうと指導するのではないのです。私は彼のためにキリストのように悲しむ者になってほしいと主から招かれたのです。

2015年2月18日水曜日

詩編第119編25から32節(ダーレト)

(私訳)
25 伏した 塵に 私の魂は
  私を生かしてください あなたの言葉の通りに
26 私の道を 私は話した そしてあなたは私に答えた 私に教えてください あなたの掟を
27 あなたの命令の道を 理解を与えてください
  そして私は思い巡らしましょう あなたの驚くべき事々を
28 泣いた 私の魂は 悲しみから
  私を確かにしてください あなたの言葉の通りに
29 偽りの道を 退けてください 私から
  そしてあなたの律法を わたしに恵んでください

30 信仰の道を 私は選んだ
  あなたの裁きを 私は置いた
31 私はすがりついた あなたの定めに
  主よ 私に恥をかかせないでください
32 あなたの戒めの道を 私は走る

  なぜなら あなたは広くする 私の心を

この詩編の構成
詩編第119編の第4連であるこの部分は大きく二つに分けることができる。前半の25から29節には6つの命令形の動詞が登場するが、後半には一つも命令形が出てこない。即ち、この詩編は祈り(命令形)の言葉が続く前半と、祈りに基づく信仰を表明する後半に分けられる。

第Ⅰ段落
25から29節は三つに分けて考えることができる。そのしるしは25節と28節に登場する「私の魂」と「あなたの言葉の通りに」である。
25から7a節で「私の魂」は塵に伏しており、「あなたの御言葉の通りに」わたしを生かしてくださいと祈る。詩編作者は塵に伏す体験によって私の道の不確かさを知った。だから、主の掟を教わることを求め、主の言葉の通りに生かし、主の命令の道を理解せしめてくださいと祈る。2829節では、「私の魂」は悲しんで泣く。だから、「あなたの言葉の通りに」確かにされ、偽りの道を退けていただかないと歩けない。そのために律法を恵んでくださいと祈る。25から27a2829は共通した単語と三つの命令形の組み合わせである。
そして、その軸が27b節である。塵に伏し、偽りの道に堕ちかねない不確かさがもたらす悲しみを覚えつつ、詩編作者は主の驚くべき御業を思い巡らすことを決意する。この黙想体験が第Ⅱ段落につながる。

第Ⅱ段落
こちらも三つに分けられる。30から31節には完了形の動詞が三つ続く。31b節は願望形。32節は未完了形の動詞が二つ登場する。
まず、詩編作者は三つの完了形で信仰の道、主の裁きと定めへの態度を述べる。私はこれを選んだ、置いた、すがりついた。この「すがりつく」は25節の「伏した」と同じ動詞。詩編作者は塵に伏していた(すがりついていた)のだが、驚くべき主の業を思い巡らし、今や塵でなく主の定めにすがりつく。だから、作者は「主よ」と呼びかけて、「恥をかかせないでください」と願う。そう願わずにはおれない。そして、最後に告白する。「私はあなたの戒めの道を走る。」この力強さは「あなたは私の心を広くする」という主の業への信頼から生まれる。

わたしは弱いときにこそ強い
神は穴蔵にこもる心を広くしてくださいます。パウロには刺がありましたが、祈りの中で、この弱さはキリストの力が発揮されるための開きだと知りました。(コリ二12・9)

当日配布した資料はこちらからダウンロードできます。

2015年2月15日日曜日

マタイによる福音書19:13-15「天の国は子どもたちのような者たちのもの」


この御言葉は教会の宝です。こういう主イエスのお言葉が聖書によって私たちにまで届けられているということは、この上ない賜物です。幼稚園の子どもの声が迷惑だという苦情が来ていると新聞で読みました。「そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。」主イエスのところへ連れてこられた子どもたちのことも、弟子たちにとっては迷惑だったようです。しかし、主イエスはそのようにはおっしゃいません。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」教会にとって、子どもは付属物ではありません。それどころか、子どもの姿を通して、教会は天の国の福音が一体何なのかを知るのです。その意味で、子どもは教会の先生です。それでは、主イエスが「天の国はこのような者たちのものである」とおっしゃる「子どもたち」は一体どういう者なのでしょうか。主イエスのところへ連れてこられた子どもは、別段良い子だったわけではないと思います。それどころ、弟子たちに叱られたのを見ると、騒がしくて大人からしたら迷惑な有様だったのかも知れません。「子供たちを来させなさい」という主イエスの言葉は、「子どもたちを赦しなさい」とも訳せます。「天の国はこのような者たちのものだ」の「このような者たち」とは、教会にとっては受け入れるために赦しという痛みを伴うような者たち、ということです。大人の言うとおりにする良い子だとか、まるで天使のようだという大人の幻想の通りに行動してくれる子どもではなくて、大人からしたら困る、迷惑なままの子どもを赦し、受け入れよ、とキリストはおっしゃるのです。この「赦す」という言葉は第1821節以下の譬え話でも重要な意味を持つ言葉です。莫大な借金を主人から赦されたのに、自分が仲間に貸していたわずかな借金を赦せなかった僕の話です。この話は神と自分と隣人との関係を表す話です。わたしは人の罪を何回赦せば良いのか。いつまで我慢すれば良いのか。主イエスは、あなた自身が神から莫大な負債、罪を赦され、帳消しにされたのだから、あなたも同じようにしなさいとおっしゃいます。この僕にはただ赦されることしかできません、どうしたって返済しようがないのです。一方的に赦していただくしかないのです。子どもも同じです。ただキリストの祝福を頂くためだけに連れてこられました。頂く以外、他には何もできない。これぞ神と私との関係です。莫大な借財のような罪を赦して頂いただけ。だからあなたもこの子を受け入れよ、そこに天の国があると主は言われます。

2015年2月8日日曜日

マタイによる福音書14:13-21「神の憐れみの物語」

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。」イエス・キリストは、私たちをいやしてくださる方です。方々の町からイエスを求めて人々が集まってきます。イエスは私たちが生きる世界の苦しみをよくご存知なのです。そこに生きる私たちを憐れまれます。「憐れみ」は自身の腹を痛めることです。そんなイエスにお目にかかるために、人々は人里離れた場所までやって来ました。イエスがそのような場所に行かれたのは、祈りをするためであったようです。私たちにも必要なのです、「人里離れた所」に行き、神と出会うことが。日曜日、主の日の礼拝こそ、主がおられる人里離れた所に他なりません。もちろん、6日間の仕事や生活は大切です。神が与えてくださった尊い務めです。しかし、この騒がしい世界で生きるためにも、人里離れた所で神と出会う時が、大切なのではないでしょうか。弟子たちにとって、人里離れた所は不便な場所でした。夕暮れを迎えたとき、弟子たちはイエスに訴えます。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」この人里離れた場所には世界のルールが通用しません。それは自己責任と呼ばれるルールです。ここにはパンが五つと魚が二匹しかない。自分たちが食べる分すら足りない。群衆は群衆で自分の面倒を見るべきだと弟子たちは考えました。第一、自分たちも疲れているのです。しかし、主イエスはそのわずかなパンと魚を指しておっしゃいます。「それをここに持ってきなさい。」この言葉はもう少し正確に訳すと、「それをここ、私に持ってきなさい」となります。弟子たちは、人里離れた「ここ」ではなく、世間一般のルールが通用する場所でないと群衆の面倒を見られないと考えました。しかし、イエスはそうではありませんでした。「それをここ、私に持ってきなさい。」イエスがおられる「ここ」で、神が彼らを養ってくださると言われるのです。私は今ある痛みを持ってこの物語を読んでいます。私も弟子と同じだと思うからです。教会には傷ついた人がたくさん訪れ増す。世間のルールに適応できるようにならないと、言葉を換えれば「普通」にならないと問題は解決しないと思ってしまうことがあります。しかし、主イエスはご自分がいる人里離れた所、「ここ」に持ってこいと言われます。神を礼拝することでこそ、私たちが本当にいやされるからです。それは浮き世の憂さを放棄するためではありません。私たちが再び「人里」で生きることができるために、いやし、養ってくださるのです。この礼拝で、主はあなたをいやしてくださいます。   

詩編第82編「地の基は揺らいでいる」

「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正し...