私たちに幸いを告げる主イエスの御言葉、祝福を宣言する御言葉です。この言葉を読んで、皆さんはどう思われるでしょうか。実は、私は少し戸惑ってしまいました。本当に主イエスがおっしゃることは幸いなのでしょうか?悲しんでいる人に向かって、「あなたは幸いだ、おめでとう」と言うことが許されるのでしょうか?或いは、例えそうだとしても、自分の知る悲しみであれば悲しみは、主イエスがおっしゃる悲しみと同じなのでしょうか?主の御言葉をどう聞けばよいのか、正直に言って戸惑ったのです。言葉を換えれば、どこに福音があるのか見えなかったのです。しかし、気づきました。ここに語られた幸いな者の姿、これは、主イエス・キリスト御自らのお姿に他ならない、と。主イエスは私のために心貧しくなられた方です。狐には穴があり、鳥に巣はあるが、イエスには枕するところもありませんでした。主イエスほど悲しみを知っている者はいません。愛する弟子に裏切られ、父と呼んだ神に見捨てられて十字架にかけられました。平和な日本で柔和は美徳ですが、厳しい社会の中では奪われ、踏みにじられるだけです。主はそういう社会の中で、罵られ、殴られても相手を赦されました。主イエスは病む者や貧しい者の苦しみをご存知です。しかし、それだけではなく、そのような苦しみを生み出す世界の罪の姿を知っていて、嘆き、義を求めて渇いておられます。主イエスはその中で苦しむ私たちの嘆きを変わって負ってくださる、憐れみの方です。この方ほどに一心に神を求める心清き人はいません。この方は暴力に暴力で返さず、復讐せず、その連鎖を止めて、平和を作り出してくださいました。義のために迫害される。これぞ、まさにキリストのお姿そのものです。正しいことのために、キリストは十字架につけられたのです。どれもこれもがキリストのお姿そのものです。だから、この御言葉のどこに福音があるのか、というよりも、むしろ、この御言葉は福音そのものです。そして、キリストは、この福音に私たちを招いておられます。あなたにも、私と同じ心貧しき者の幸いに生きてほしい、悲しむ者の幸いに生きてほしい、・・・、と。先日、友人から電話がありました。彼はとても悲しんでいました。将来のことを思って不安になっていました。彼と話しながら、昨日の研修会で聞いたリサ・アンダーソン先生のお話を思い起こしました。痛む者と寄り添うために、私たちは、希望を捨てずに、諦めずに寄り添い続ける必要があるとおっしゃっていました。希望を与えてやろうと指導するのではないのです。私は彼のためにキリストのように悲しむ者になってほしいと主から招かれたのです。
2024年4月25日の聖句
救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...
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主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
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今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...
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詩編29~30 主は洪水の上に座し 主は王として、とこしえに座した。 主がその民に力を与えてくださるように。 主がその民を祝福してくださるように 平安のうちに。(30:10~11) 川の水はかの平清盛にさえもどうにもならないと言わしめたと聞き及んだことがあります。私たち人間の...