2015年3月31日火曜日

マルコによる福音書第12章18から34節(2015年3月31日・受難週祈祷会火曜日)

1.
「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」

神への愛、隣人への愛を命じるこの言葉が、受難週に主が教えてくださった律法として記されていることは印象的である。主イエスは明確に十字架を見つめつつ、あらゆる掟のうちで第一のもの、第二のものとしてこの二つの御言葉を聞かせてくださった。神への愛、隣人への愛は、それ故、私たちにとってキリストの十字架抜きに考えることはできない。全く不可能である。十字架のキリストのお言葉としてのみ、私たちもまたこれに生きることができるし、また大胆にも現に生きていると言いうる掟なのである。

2.
律法学者は「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねた。しかし、主イエスの答は、「第一の掟」に続いて「第二の掟」をお教えになった。神への愛と隣人への愛は切り離して考えることができない。神を愛して隣人を憎むことはできないし、神を憎みながら真実に隣人を愛することはできない。
さらに言えば、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われているのだから、ここには自分自身への愛もまた命じられている。神、自分自身、隣人との三つの関係が愛によって形づくられる。それを、主イエスはお命じになったのである。

3.
これを尋ねたのは「彼らの議論を聞いていた一人の律法学者」であった。「彼らの議論」とは何のことか。18から27節がそれを伝える。この文脈が大事なのだと思うのである。
事は、復活を信じていないサドカイ派の人々が律法から揚げ足をとるような質問をイエスにしてきたことに始まる。レビラート婚をした女は、復活の時に誰の妻になるのか?これに対し、主イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。・・・神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」復活はない。つまり、この世が全てということだ。死んだら全て終わりということだ。死を超えた復活という希望を認めないことになる。しかし、それは思い違いであると主イエスは言われる。神は生きた者の神なのである。

4.
死は残酷だ。私たちから愛の関わりを無惨に奪う。愛する人が生きている姿を見ることは、もう二度とできなくなる。その話し声を聞くこと、いつもの何気ない仕草を見ること、体温のぬくもりを感じることができなくなる。半年ほど前にある老婦人の葬儀に出席した。式の最後に夫が挨拶に絶った。涙ながらに、火葬は残酷ですと言った。愛する者を喪った経験を持つものであれば、恐らく誰もが同意する悲しみである。
しかし、主イエス・キリストは、神は生きた者の神なのであると言われる。これは、もう死んでしまっては神を神と呼ぶことも信じることもできない、などという意味ではない。断じてない。神は、もうすでに死んだアブラハム、イサク、ヤコブといった人々にとっても、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼ばれる方である。神が結んでくださる絆は死をもってしても断ち切られることがない。アブラハムも、イサクも、ヤコブも、私たちも、死を迎えて後もまた神との関わりにおいては生きた者であり続ける。神は生きた者の神なのである。

5.
私たちの結ぶ愛の絆は死を乗り越えることができない。残酷なことだ。しかし、神が結んでくださる愛の絆は、死によって滅ぼされることがない。
「わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙第8章38,39節)
私たちの愛は死によって滅びる。しかし、なお、キリストは私たちに愛をお求めになる。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」「隣人を自分のように愛しなさい。」神が私たちの滅びるしかない愛を完成してくださるからだ。キリストがわたしの愛を確かだと保証してくださるからだ。十字架にかかったキリストが、である。愛の掟。それは、私たちにとって、神が十字架のキリストにあってくださった賜物以外の何物でもないのである。

2015年3月30日月曜日

マルコによる福音書第11章12から19節(2015年3月30日・月曜日の受難週祈祷会の奨励)

1.
ここに記されている主イエスのお姿をどう感じるだろうか。お腹がすいたからといちじくの実を求め、しかし季節ではなかったので実はなかった。それを知って、主はいちじくの木を呪います。また、神殿ではお店をめちゃくちゃにしてしまいます。神殿ではその当時流通していたローマの貨幣を献げられませんでしたので、ユダヤの金に換える両替商がいました。献げ物にする鳩も無傷のものでなければならなかったので、自宅から連れてくるのは大変です。自宅で育てた鳩を売り、神殿の境内で買い直して献げていたのです。或いは、境内を横切って物を運ぶ。それらのことは、そんなに激しく怒らなければならないほどの悪い行いなのでしょうか?いちじくの木を呪ったことと言い、神殿での振る舞いと言い、主イエスらしくないように思います。ちょっと躓いてしまうなさりようではないでしょうか。

2.
主イエスは神殿で聖書をひいて言われました。
 「こう書いてあるではないか。
 『わたしの家は、すべての国の人の
 祈りの家と呼ばれるべきである。』
ところが、あなたたちは
それを強盗の巣にしてしまった。」
主イエスがなさったことに負けず劣らず激しいお言葉です。そこまで激しく断罪しなければならなかったのでしょうか?

3.
思えば、前日に主イエスはエルサレムの都に入城してすぐに神殿の境内に入って、辺りの様子を見て回わられました。物見遊山に行かれたのではありません。主は神殿での人々の祈りの様子を見に行かれたのでしょう。その姿は、主の御目からご覧になって、もはや祈りの家とは呼べないものになっていたのです。
神殿の商売は、どれも、礼拝を献げる者たちの便利のために作られていました。そして、そこでもうけを出して生計を立てる者がいました。貧しい者には礼拝に生きにくい環境さえ生まれていたことでしょう。それは、祈りの家ではなく、強盗の巣でしかない。便利をはかり、合理化し、利益を求め、自分の都合で礼拝と祈り(神に向かう生活)さえも少しずつ変えてしまう。そういう姿を主イエスはご覧になったのではないでしょうか。

4.
ゼカリヤ書第14章21節に、「その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」という言葉があります。「その日」とは神が戦われる日、私たちを解放してくださる日です。キリストを信じる私たちにとって、それは、キリストが十字架にかかられた今日を指すと言えましょう。その日には、もやは主の神殿に商人がいなくなる。神殿が私たちの欲にまみれた罪の家、強盗の巣ではなく、祈りの家として新しくされるのです。

5.
いちじくの木の話は、この神殿での出来事を象徴的に表しています。主イエスの空腹は、切に神を求め、身と心を注ぐようにして神の御前に祈る信仰者を求める飢えです。しかし、そのような祈りを見いだすことができなかった。今は季節ではありません、今は都合が悪いのです、今は自由な時間にしてください、今は忙しいので・・・そのように言って、自分の都合やしたいこと、利益を優先させて、誰一人祈りの実りをもたらすことがない。主イエスはそういう私たちの現実をご覧になったのです。そして、その事を深く嘆いておられる。

6.
最初、わたしは、主イエス裸子から名ぬ行動にちょっとつまずくと申しました。むしろ、私たちの祈りを失った姿に躓いているのは主イエスの方ではないかとさえ思います。しかし、主は躓いてもなお私たちを見捨てることなく、十字架に向かう道を進んで行かれます。こうして、受難週の歩みが続くのです。

2015年3月29日日曜日

マルコによる福音書11:1-11「あなたの王がやって来る!」


主イエスは満を持してエルサレムの都に入城なさいました。それに際して乗られた子ろばを巡って、不思議なやりとりがあります。主イエスはご自分が乗るための子ろばを既に手配しておられたようです。ここに、エルサレムに入られるために、主イエスご自身と父なる神とが、並々ならぬ準備をしておられたことが伝わってきます。主イエスは満を持してこの時をお迎えになったのです。王として、ご自分が迎えられるために。人々がろばの上に自分の服をかけたのも、服を道に敷いたのも、枝を振ったのも、どれも王をお迎えする仕草です。王であるイエスが来られる。しかし、うかつなことに、私にはあまりピンときませんでした。一つには、自分があまりよく王という人が何者なのかを知らないからです。しかし、それだけではなく、私は「王」と言おうが何と言おうが、人間の支配者が権力を持って振る舞うことがあまり好きではなく、主イエスに王というイメージが似つかわしくないと思ったのです。うっかりすると、人間の支配と一緒にキリストのご支配までもご遠慮申し上げる過ちを犯しかねません。キリストの支配、神の支配を退けるとき、私は自由になるのではなく、他のものの支配の下に降っているにすぎないのです。エフェソの信徒への手紙第2章に、かつて私たちは肉の欲望に従い、肉や心の欲するままに生きてきた、それは悪霊に支配されていたのに他ならないと言われています。その通りです。主イエスは王として来られました。王として戦い、私たちを勝ち取るためです。主はオリーブ山の麓からエルサレムへ向かわれましたが、この山はゼカリヤ書第14章によると、救い主が人々を救うための戦いの時に立つ場所です。主は王として戦われます。なぜか?この私を勝ち取るためです。悪霊に支配され、そのために罪の虜になって肉の欲望の赴くままに生きてきた私をご自分のものとして神の怒りから免れさせるためにです。洗礼とはそういうことです。洗礼を受けた者はキリストが戦いで勝ち取った領土、キリストの戦いの前線基地になるのです。ナチに抵抗して強制収容所で獄中死した牧師パウル・シュナイダーは連行されるとき涙ながらに妻が朗読する聖書の御言葉を聞きました。「すると、長老の一人が私に言った。『泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、・・・。』(黙示録5:5)」神の御心が見えない現実に涙しつつ、御言葉を聞きました。「屠られた小羊」であるイエスがおられる、と。王として来られたイエスはろばに乗る柔和な王です。ゼカリヤ書9:9-10を見ると、ろばに乗る王は戦車と軍馬を絶って平和を告げるとあります。キリストの戦いは軍馬によるものではない。へりくだり、十字架にかかることで、私たちを神の愛の御支配へと勝ち取ってくださったのです。

2015年3月22日日曜日

マタイによる福音書6:25-34「明日のための思い悩みから解放される」


主イエスのお言葉はとてもイメージ豊かです。「空の鳥をよく見なさい」「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」。よく見なければ見逃してしまう、注意して見なければ気づかない神のご配慮をよくご覧なさいと言われます。主イエスに喚起されたイメージは広がり、私たちも、身近にいる信仰者をよく見てみたならば、そこでもやはり同じように神のご配慮を見ることができることでしょう。神を信じる者は、自分が神の父としての慈愛によって生かされていることを信頼して生きているのです。空の鳥は神が養ってくださいます。野の花は神が美しく装ってくださいます。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、と主は言われます。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」だから、思い悩まなくて良いのです。これは神の祝福と父としての慈愛に満ちた、約束の言葉です。私は今日の聖書の御言葉を読みながら、いろいろなことを考えました。卑近なことを考えました。家計簿をつけて良いのか、生命保険に入って良いのか、身なりを整えおしゃれをしても良いのか、などという些末なことです。しかし、そういう些末な生活上のことが案外大切なのです。信じることは、生活することだからです。毎日のメシの話、衣服の話を主イエスはなさっているのです。信仰は心の問題ではありません。私が学生の頃に信仰の指導をしてくださった牧師は、あなたがどう神を信じているのかは、あなたがどうお金を使うかに表れると言っておられました。その通りであると思います。そして、得てして、金は私たちと神様との間に割って入ってきて、神を信じて生きることを邪魔します。「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」と主イエスは言われました。当たり前です。しかし、この当たり前が当たり前でなくなる本末転倒がよく起こるのではないでしょうか。お金は生きていくため、命のため、食っていくためのものに過ぎません。しかし、いつの間にか貯めること自体が目的になります。そうでないと不安だからです。ある程度貯まると、神無しでも生きていける気になるので、いつの間にか神様を忘れてしまいます。これを本末転倒と言わずして何と言うのでしょう。主イエスは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」と祈れとお教えになりました。しかし、本当は、今日の糧が今日になってから与えられるのでは遅すぎるので、明日の分もほしいですし、この先一生分がほしいのです。主イエスはそういう気持ちをよくご存知の上で私たちにチャレンジなさいます。「明日のことまで思い悩むな」と。なぜなら、神は私たちの父だからです。この方はご自分の御子をくださり、御子と共に私たちに必要なすべてのものを必ず下さるのです。

2015年3月8日日曜日

マタイによる福音書5:21-26「まずは兄弟と仲直りを」

一読しただけで決して忘れられない、突き刺さるような御言葉です。ある人はこの御言葉を巡る歴史は、何とかして意味を緩和しようとする歴史だったとさえ言います。私は人を殺したことはもちろんありません。しかし、人に腹を立てることはしょっちゅうあります。ばかとか愚か者と言うことは、そのままの表現ではないにしろ、要するに同じことは口にしています。それならば、私も裁かれ、最高法院に引き渡され、火の地獄に投げ込まれなければなりません。この御言葉を読むには、そういう痛みが欠かせないと思うのです。22節を「正当な理由もなく、兄弟に腹を立てる者は・・・」と読む理解があります。意味を緩和するのです。しかし、誰かに対して怒るとき、殆どの場合自分には怒る正当な理由があると思い込んでいます。自分は正しい、或いは間違っていても、少なくとも相手にも悪い点があると信じています。相手を口汚い言葉で感情のままに罵るとき、相手への尊敬は消えます。自分を相手より一段高いところにおいています。ついには、相手の人格を否定するため、傷つけるための言葉をさえも口をついて出てくることがある。更には人前で恥をかかせることさえ目論む。そうやって、相手を殺すのです。主は問われます。そうして相手を傷つけたまま、相手を否定し、恥をかかせ、相手が反感を持ったままで神を礼拝することができるのか、と。相手が自分に反感を持っているのだとしたら、それは自分に原因があるのではないか。主は、それでは礼拝が神の前に真実な礼拝にはなりえないとおっしゃいます。厳しい言葉です。聞くのが苦しくなります。心当たりがありすぎるのです。一つや二つではありません。主がそのように言われるのは、私たちの生臭い人間関係が、神にとってどうでもいいことではないからです。しかし私たちを監視しておられるのではありません。神が私たちに関心を持っておられるのは、主イエス・キリストが、私たちと同じ人間になられたからです。私たちの人間関係を知っておられるからです。「わたしたちが(兄弟を)愛するのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。(Ⅰヨハネ4:19)」和解、それはとても厳しい道です。屈辱を味わうこと、プライドが引き裂かれることもあります。しかし、主イエスがご自分を信じる者にお求めになる道です。イエスご自身が、ご自分を低くして、へりくだって歩まれた道だからです。だから、道を行くとき、自分を訴える人が一緒にいるのなら、それは幸いなことです。今ならまだ和解できる。裁判所に着く前であれば。主は言われるのです。その人は、あなたの兄弟だと。御自らが私たちの兄弟になってくださった方の言葉です。   

2015年3月4日水曜日

詩編第119編33から40節

(私訳)
33 私に教えてください 主よ 道を あなたの掟の
  そしてそれを私は見ましょう 最後まで
34 私に理解させてください
  そして私は保ちましょう あなたの律法を そして私はそれを守りましょう 全ての心において
35 私を歩かせてください 小道において あなたの戒めの
  なぜなら それを 私は喜んだ
36 向けさせてください 私の心を あなたの定めに
  しかし ない 不正な利益に
37 背けさせてください 私の両目を 見ることから 空しさを
  あなたの道において 私を生かしてください
38 立たせてください あなたの僕のために あなたの言葉を
  それは あなたを畏れる者のためのところの
39 背けさせてください 私の恥を 私が恐れるところの
  なぜなら あなたの裁きは 良い
40 見てください 私は待ち焦がれた あなたの命令を

  あなたの正しさにおいて 私を生かしてください


この詩編の構成と特徴
この連の鍵言葉は「道」である。333537節に出てくる(35節は同じ語根の動詞形)。つまり、「道」を含む三つの段落に分けられる。ⅠからⅡには「心」が、ⅡからⅢには「不正な利益」、「空しさ」、「私の恥」などのマイナスイメージを与える言葉があり、主題を深化させている。
また、この連はヘーから始まる関係で、40節以外の各節冒頭がヒフィル形(使役形)の命令法の動詞であり、私をしてこのようにしてください、という祈りの言葉である。

第Ⅰ段落(33から34節)
「主よ」と呼び、教えてください、理解させてくださいと祈る。その祈りに導かれて、私はあなたの掟の道を見ましょう、保ちましょう、理解しましょうと信仰を表明する。ここでは極めてシンプルな告白という印象が強い。「全ての心において」が次の段落への橋渡しになる。

第Ⅱ段落(35から36節)
「私を歩かせてください、あなたの小道に」と祈る。それは「私がこの小道を喜んだ」からだ。だから、こうも祈る。「向けさせてください、私の心を。不正な利益にではなく、主の定めに。」まず、「私の心」という前段との橋渡しがある。この「心」は知性の座という印象を受ける言葉だが、無論知性を含めた行動全体を指すと考える方が適切だろう。また、「不正な利益」には暴力的な手段で得た利益という意味もある。このような利益は空しいし、空しいものを追えば、最後には恥を恐れるしかない。第Ⅲ段落に続く。

第Ⅲ段落(37から40節)
この段落に登場する「道」にはⅠのようなシンプルさは見られない。「空しさ」や「恥」に言い表される自分の罪の自覚の中で、なお主の道を求めて祈るのだ。だから、詩編作者は「背けさせてください」と繰り返し願う。私の両目が空しさを見ないように、私が恐れる私の恥から。なぜなら、主の裁きは良いものだからだ。「良い」のは不正な利益ではない。私は待ち焦がれている。主の命令を。そのように言う作者は主を畏れている。主の言葉の成就(立つこと)を願う。だから、主の道において生かされることを、主の正しさに生かされることを祈る。罪の道からの解放を求める者の祈りだ。

祈りのために
マルコ9・4250は徹底して躓きを退ける。42節の「小さな者」は前段落の者。彼らも躓かせない。これは手も足も目も献げたキリストのお言葉。この詩編と共に祈る。

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創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...