2015年8月30日日曜日

マタイによる福音書第9章9から13節「罪人を招くためにキリストは来られた」

キリストは憐れみ深いお方です。憐れんで罪人を招かれます。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」大変な言葉です。よりにもよってわざわざ罪人を招くために来られたとおっしゃるのです。旧約聖書の言葉を引きながら、「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」とも言われます。これは預言者ホセアが告げた神の言葉です。ホセアは神からゴメルという姦淫の女をめとれと命じられて妻に迎えました。しかし彼女は繰り返し夫を裏切り、ホセアは苦しみます。そして、繰り返し妻に裏切られる夫の立場になってみて、人々に繰り返し裏切られる神の御心を知りました。罪人を招くために来たと主イエスはおっしゃいます。「罪人」というのは、最悪の人のことです。私はその罪人を憐れむと言われます。自分にだって正しいところがあるという盲信が、神の前に何の役に立つのでしょう。神の御前に恥じ入るべき罪人であることを、悔い改めるより他ないのです。改革者ルターは罪を犯し立ち直れなくなった友のために手紙を書きました。罪人を招いてくださるキリストに従おうと招きます。「どうぞ、私ども、とんでもない罪人たち、頑迷固陋な罪人の仲間入りをしてください。そのようにして、キリストを、絵空事の、子どもっぽい罪からしか救い出すことができないような小さな、頼りない存在にしてしまわないようにしてください。そうです、それはとんでもないことです。そんなことをすれば、私どもの益になりません。そうではなくて、キリストは神から救い主として私どものところに遣わされた方です。キリストだけが救い得る方です。まさしく、とんでもない大きな罪、重い、呪われるべき違反、罪業から救い得る方です。最大、最悪の、要するに、地上の罪すべてを犯した者をも救い得る方です。私もかつて、あなたとそっくりに、癒しを必要とする状況にあり、同じ試練のなかでありました。シュタウピッツ博士が慰め深く私に語りかけてくださらなかったら、このあまりの苦悩と悲しみに死んだのではないかとさえ思います。こう語ってくださったのです。『ああ、あなたは絵空事のまさに絵に描いたような罪人になりたがっておられる。だからこそ、絵空事の、まさに絵に描いたような救い主だけを得ようとしておられる。正しい真実の事柄のなかに身を置いていただきたい。そしてそのことに習熟していただきたい。キリストはあなたの真実の救い主、あなたは真実の、大いなる、呪われるべき罪人であることに習熟していただきたい。神がみ子を送ってくださり、私どものために献げていてくださっているのに、神を軽んじ、絵空事を抱えてうろうろとしないでいただきたい』」。この教会はキリストの憐れみで罪を赦された物乞いたちの群れです。

2015年8月16日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「愛することに条件がなくなる日」

主イエスは譬え話の名人とよく言われます。確かにその通りです。この話もとてもインパクトに残る、分かりやすい話です。しかし、同時に思うのは、これは果たして本当に「分かりやすい」話なのでしょうか。このサマリア人は大きな愛の業に生きたわけではありません。福祉施設を作ったのでも、高邁な理想を体現したわけでもありません。無計画に起きた行きずりの愛の行いに生きただけの人です。それは、例えば電車で席を譲るようなことと似ているのかもしれません。小さな事です。しかし、疲れていて、席を譲れないこともあります。せっかく並んで座った席を空けたくないこともあります。若くたって今日は立てないと思うこともあります。こちらにも事情があるからです。祭司やレビ人だって悪人ではありません。彼らは怪我をした人を見て、道の向こう側を通っていきましたが、けが人を道に倒れさせておいて助けに来た人を襲うのは強盗の常套手段です。或いは、彼らは職業上、死体に触ってはいけませんでした。私たちは誰でもそれぞれの事情を抱えていますから、言いたくなるのです。「では、わたしの隣人とは誰ですか。」神を愛すること、隣人を愛すること、それは大切だ。それに反論はない。しかし、どこまでやれば良いのか。誰を愛せば良いのか。私が愛すべき人とはいったい誰のことなのか。それは、家族でしょうか。或いは、友だち、同胞、それとも利害関係がある人でしょうか。或いは、信仰を同じくする人のことか。疲れていても、よく知っている目上の方が電車にいたら、すぐに席を譲るでしょう。それでは、どこまですれば良いのか。際限なく全員にというのは現実的にできないので、そうやって範囲を決めるのです。しかし、そうやって愛すべき人とそうできなくても仕方ない人を区別していくと、とても惨めな気持ちになります。自分に愛が乏しいことに気づくからです。自分がどうしようもなく愛することから遠いことに気づかざるを得ないからです。そう考えると、この譬え話は分かりやすいとはいいにくいと思います。ストーリーとしては易しいですが、分かりやすくはありません。分かるというのは変わることだからです。主イエスの譬え話は私たちの常識からは外れています。行きずりの愛に生ききる人、敵であってもとっさに愛する人。理想であっても実際にいるのか?一般論としてではなく、この私はそのように生きられるのか?例え私がそう生きられないと思っても、主イエスは実際にそうしてくださいました。愛に乏しい惨めな私を救うために、わたしを見て、憐れんで、来てくださったのです。2デナリオンどころではない、ご自分のいのちまで下さいました。そして、主イエスはお前も私と同じ愛に生きられると招いておられます。キリストの愛から始めるならば、です。

2015年8月9日日曜日

創世記第32章23から33節「東雲の明け初めるまで」

寝苦しい日が続いています。眠れない夜は、それだけで試みの中にいるかのようです。詩篇第17編は夜の詩編です。「主よ、正しい訴えを聞き、私の叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。あなたは私の心を調べ、夜なお尋ね、火をもって試されますが、・・・。」夜、試みに遭い、試されています。眠れない理由はいくらでもあります。不安や心配、看病や介護、体調の悪化。そんな「夜」は神の御顔が見えなくなってしまうときでもあります。だからこそ、神の「御もとに隠れる」るのです。そこに救いがあるから。「私は正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」夜の祈りは、夜明けを待つ祈りです。神の御顔が見えないとき、そのお姿を待ち望んで祈るのです▼ヤコブは真夜中に何者かと闘いました。誰と闘ったのでしょうか。伝統的に、神と闘ったと考えられています。確かに29節には「神と人と闘って」とありますので、神と闘ったとも考えられます。しかし、神と闘うというのはどういう意味でしょうか。熱心に祈ることと言えそうです。しかし、それだけではないようにも思います。この何者かと闘ったとき、闇夜の中のヤコブにはその相手が誰なのか分からなかったはずです。恐らく、誰かに襲われて、ヤコブはとっさに兄エサウかその手の者と考えたことでしょう。20年前に兄を騙して以来、初めての帰郷ですから。ヤコブの夜の闇は自分の生で傷ついた人がいるという現実、自分を恨んでいる人が実際にいるという事実を象徴するかのようです。神と格闘するというときに、そういう人を抜きに考えることはできないのです。神は私たちがこの人の顔は見たくないとか、顔を見るだけで責められている気がするとか、この人のことははっきり言って嫌いだとか、そういう人の顔をして、私たちのところへ来られるのかもしれません。ヤコブは、この人と向き合って、闘っている内に、初めてここにこそ私の祝福があると気づいたのです。神様は、ふしぎなことに、できれば会いたくない人に私のための祝福を運ばせようとなさるのです▼でも、顔も合わせたくない人と一体どうやって向き合えば良いのでしょうか。スイスに生きたボーレン牧師はこのように言います。「夜の祈りの時に、使徒信条で語られる神の歴史を祈りながら、自分自身の現実として当てはめてください。次に、今日あなたが会った一人の人を思い浮かべて、今度はその人を使徒信条に入れてしまいます。神の歴史の一齣一齣をこの人と結びつけるのです。そうすると「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈らざるを得なくなるのです。」そのために、眠られぬ夜の祈りを祈り通されたのはイエスご自身です。あなたが夜明けに神の御顔を仰ぐために。

2015年8月2日日曜日

創世記第28章10から22節「石の枕で寝る日にさえも」

ヤコブはとてもしたたかな男です。双子の兄エサウがいました。当時、家督は長男が継ぐことになっていましたが、ヤコブは兄と父を騙して、それを奪い取ります。怒る兄の手を逃れて荒れ野に行き着いたヤコブは石を枕に野宿をしました。ずっと私にはヤコブはずるい人で、自分のことしか件が得ないワガママな人のように感じていました。しかし、日本人の私から見て小ずるいヤコブは、もしかしたら彼の文化の中では知恵を使って世を渡った人なのかもしれません。私たちだって、考えてみればただのお人好しでは荒波の中を生きていけないのです。しかし、知恵を使ったヤコブは、その結果独りぼっちになりました。家族を失ったヤコブの石の枕は、孤独の象徴です。そんなヤコブが夢を見ました。自分が石の枕で寝転んでいる地に、先端が天まで達する階段が地に向かって伸びていたのです。ヤコブのところから、階段が天に向かって昇っていたのではありません。ヤコブのところへ、天に達する階段が伸びていたのです。つまり、天がヤコブのところにまで降りてきたのです。石の枕で寝ている地面の上で、ヤコブは主なる神と出会いました。ヤコブが順風満帆に生きていたときではありません。家族に恵まれ、仕事が上手くいっていたときではないのです。仕事も家族も失い、一人で惨めに硬い石を枕に寝ていたときに、神が、ヤコブと出会ってくださったのです。神を信じるのに相応しいタイミング、或いは教会員籍を移すのに良いタイミングは、平穏無事なときではありません。今です。今、主なる神はあなたの側らに立っておられるのです。そのことに気づいたとき、ヤコブは言いました。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった。ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」神と出会うための神の家、天の門を、私たちは必要としているのです。そして、それは、ここです。この教会です。主なる神と出会う、それは具体的に言えば、神の御言葉を聞くこと、そして、聞き続けることです。主なる神はそうやってヤコブと出会われました。今神があなたに御言葉を聞かせてくださり、あなたが神を礼拝しているこの場所で神はあなたと出会ってくださっているのです。この神の家で神が聞かせてくださる御言葉は、彼の父祖が聞き、そして今彼自身もこの私のための祝福として聞いた、約束の言葉です。「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」神は、畏れ多いことに、何のいさおもない者を敢えて選んで、ご自分のものとしてくださいます。この神が、今日もまた新しく、あなたと出会おうとしておられます。

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...