2015年8月16日日曜日

ルカによる福音書第10章25から37節「愛することに条件がなくなる日」

主イエスは譬え話の名人とよく言われます。確かにその通りです。この話もとてもインパクトに残る、分かりやすい話です。しかし、同時に思うのは、これは果たして本当に「分かりやすい」話なのでしょうか。このサマリア人は大きな愛の業に生きたわけではありません。福祉施設を作ったのでも、高邁な理想を体現したわけでもありません。無計画に起きた行きずりの愛の行いに生きただけの人です。それは、例えば電車で席を譲るようなことと似ているのかもしれません。小さな事です。しかし、疲れていて、席を譲れないこともあります。せっかく並んで座った席を空けたくないこともあります。若くたって今日は立てないと思うこともあります。こちらにも事情があるからです。祭司やレビ人だって悪人ではありません。彼らは怪我をした人を見て、道の向こう側を通っていきましたが、けが人を道に倒れさせておいて助けに来た人を襲うのは強盗の常套手段です。或いは、彼らは職業上、死体に触ってはいけませんでした。私たちは誰でもそれぞれの事情を抱えていますから、言いたくなるのです。「では、わたしの隣人とは誰ですか。」神を愛すること、隣人を愛すること、それは大切だ。それに反論はない。しかし、どこまでやれば良いのか。誰を愛せば良いのか。私が愛すべき人とはいったい誰のことなのか。それは、家族でしょうか。或いは、友だち、同胞、それとも利害関係がある人でしょうか。或いは、信仰を同じくする人のことか。疲れていても、よく知っている目上の方が電車にいたら、すぐに席を譲るでしょう。それでは、どこまですれば良いのか。際限なく全員にというのは現実的にできないので、そうやって範囲を決めるのです。しかし、そうやって愛すべき人とそうできなくても仕方ない人を区別していくと、とても惨めな気持ちになります。自分に愛が乏しいことに気づくからです。自分がどうしようもなく愛することから遠いことに気づかざるを得ないからです。そう考えると、この譬え話は分かりやすいとはいいにくいと思います。ストーリーとしては易しいですが、分かりやすくはありません。分かるというのは変わることだからです。主イエスの譬え話は私たちの常識からは外れています。行きずりの愛に生ききる人、敵であってもとっさに愛する人。理想であっても実際にいるのか?一般論としてではなく、この私はそのように生きられるのか?例え私がそう生きられないと思っても、主イエスは実際にそうしてくださいました。愛に乏しい惨めな私を救うために、わたしを見て、憐れんで、来てくださったのです。2デナリオンどころではない、ご自分のいのちまで下さいました。そして、主イエスはお前も私と同じ愛に生きられると招いておられます。キリストの愛から始めるならば、です。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...