2015年8月9日日曜日

創世記第32章23から33節「東雲の明け初めるまで」

寝苦しい日が続いています。眠れない夜は、それだけで試みの中にいるかのようです。詩篇第17編は夜の詩編です。「主よ、正しい訴えを聞き、私の叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください。あなたは私の心を調べ、夜なお尋ね、火をもって試されますが、・・・。」夜、試みに遭い、試されています。眠れない理由はいくらでもあります。不安や心配、看病や介護、体調の悪化。そんな「夜」は神の御顔が見えなくなってしまうときでもあります。だからこそ、神の「御もとに隠れる」るのです。そこに救いがあるから。「私は正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」夜の祈りは、夜明けを待つ祈りです。神の御顔が見えないとき、そのお姿を待ち望んで祈るのです▼ヤコブは真夜中に何者かと闘いました。誰と闘ったのでしょうか。伝統的に、神と闘ったと考えられています。確かに29節には「神と人と闘って」とありますので、神と闘ったとも考えられます。しかし、神と闘うというのはどういう意味でしょうか。熱心に祈ることと言えそうです。しかし、それだけではないようにも思います。この何者かと闘ったとき、闇夜の中のヤコブにはその相手が誰なのか分からなかったはずです。恐らく、誰かに襲われて、ヤコブはとっさに兄エサウかその手の者と考えたことでしょう。20年前に兄を騙して以来、初めての帰郷ですから。ヤコブの夜の闇は自分の生で傷ついた人がいるという現実、自分を恨んでいる人が実際にいるという事実を象徴するかのようです。神と格闘するというときに、そういう人を抜きに考えることはできないのです。神は私たちがこの人の顔は見たくないとか、顔を見るだけで責められている気がするとか、この人のことははっきり言って嫌いだとか、そういう人の顔をして、私たちのところへ来られるのかもしれません。ヤコブは、この人と向き合って、闘っている内に、初めてここにこそ私の祝福があると気づいたのです。神様は、ふしぎなことに、できれば会いたくない人に私のための祝福を運ばせようとなさるのです▼でも、顔も合わせたくない人と一体どうやって向き合えば良いのでしょうか。スイスに生きたボーレン牧師はこのように言います。「夜の祈りの時に、使徒信条で語られる神の歴史を祈りながら、自分自身の現実として当てはめてください。次に、今日あなたが会った一人の人を思い浮かべて、今度はその人を使徒信条に入れてしまいます。神の歴史の一齣一齣をこの人と結びつけるのです。そうすると「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」と祈らざるを得なくなるのです。」そのために、眠られぬ夜の祈りを祈り通されたのはイエスご自身です。あなたが夜明けに神の御顔を仰ぐために。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...