2015年9月20日日曜日

ヨハネによる福音書第21章1から19節「もういちど、やりなおすために」

週報に挟まれた召天者名簿を見つめながら今日の説教の準備をしました。今日は召天者記念礼拝です。私は直接存じ上げない方もたくさんいらっしゃいます。しかし、直接お目にかかれなくとも、お話を伺ってきた方は何人もおられます。今日は、ぜひ、愛する者、既に地上の生涯を終えられた方について、皆さんに正しく知って頂きたいのです。「正しく知る」とは、福音の光の中で知るということです。私たちが信じる福音は、十字架にかけられたイエス・キリストが死者の中から復活された、という福音です。私たちも同じように復活する、という福音です。ヨハネは福音書の中で甦らされたキリストが弟子たちのところへ来られたときのことを記しています。ティベリアス湖で漁をしていたペトロたちのところへ、イエスが来られた。その夜、彼らは魚一匹とることができませんでした。岸に来られたイエスは彼らに声をかけ、網を降ろさせます。すると網一杯の魚が捕れました。その時、岸辺で声をかけてきたのは主イエスだとある人が気づき、その声を聞いたペトロは服を着て舟から湖に飛び込み、泳いで岸へ行きました。そこには炭火がおこしてあり、主イエスは捕れた魚を食べさせてくださった。食事の後、イエスはペトロに尋ねます。「わたしを愛するか。」「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です。」こうして、同じやりとりを3回繰り返しました。これはペトロの主イエスとの再会を伝える物語です。イエスの愛に満ちています。初めてペトロがイエスと出会ったのは、同じ湖の岸辺でした。あの朝も不漁の一夜を明けたところでした。しかし、主がおっしゃったとおりに網を降ろしたら、魚がかかった。三度「私を愛するか」主に尋ねられたとき、ペトロは悲しみました。主の十字架の前に、彼は三度イエスを知らないと言ったのです。それをなぞるかのようにして、主はペトロと再会されたのです。人間の愛は無力です。ペトロがイエスを裏切って「知らない」と言ったのは、愛の挫折でしょう。しかし、例えあの時彼が愛を貫いていたとしても、イエスが死んでしまってなお愛を貫くことができるのでしょうか。死を前に何ができるのか。しかし、主イエスは復活してペトロのところへ来てくださった。今度はペトロが愛を貫けるように、もう一度チャンスを与えるのではありません。却って、イエスの愛でペトロを覆ってしまうためです。イエスが復活されたから、愛が永遠の価値を持ちうるのです。この福音の光の中に、あなたも、あなたの愛する人もいるのです。スイスの牧師ボーレン先生が『深く閉ざされた穴蔵の底で』という本を著しました。妻がうつの果てに自殺し、ご自身も心を病みました。しかし、生きるときも死ぬときも、私はキリストのものと知り、慰めを受けたのです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...