2015年11月8日日曜日

エステル記第9章1から6節「自分で復讐せずに」

キリスト教会は三つの祭りを祝います。主イエスの誕生を神に感謝するクリスマス。そのイエスが十字架にかけられ、三日の後に復活させられたことを祝うイースター。そして、神の霊が弟子たちに降り、教会が生まれたことを記念するペンテコステ。これら三つの祝いは、それを祝う度に、私たちがどのような信仰に生きているのかを確認する機会になります▼エステル記はユダヤの「プリム」という祭りの由来を伝えます。かつてペルシアにいたユダヤ人を悪臣ハマンが殲滅しようと策略しました。ユダヤ人モルデカイを嫌い、民族全体を皆殺しにしようとしたのです。ハマンは手始めにモルデカイを高い杭に吊そうと企てます。しかし、モルデカイの養女でペルシア国王の妃であったエステルの捨て身の賭により、ハマンの悪事は暴かれ、モルデカイを吊そうと準備した杭にハマン自身が吊されました。更にユダヤ人は難を逃れ、自分たちを迫害した者たちに復讐する権利を王から認められます。その出来事を記念してユダヤ人はプリムの祭を祝い、今も毎年春先に行います。その度に自分たちが一体何者であるのかを確認するのです。自分たちは弱くて、迫害され、権力に圧迫され、信仰を脅かされているけれど、神が必ずいつの日にかその立場を逆転してくださって、私たちを貶める者らをやがて我らが支配する日が来る、その日を信じよう、と▼今日の説教題を「自分で復讐せずに」としました。今日の準備では随分と悩みました。エステル記はユダヤ人の復讐の書物です。これをどう受けとめたら良いのでしょう。歴史を学ぶと、世界中殆どどこの歴史であっても、それは殆ど戦争の歴史です。ある国が支配されて、その国をまた別の国が支配して、その度にたくさんの人が死んでいる。やられた者がやり返すこともあります。第二次世界大戦後のイスラエルの歴史を考えてみても、「復讐」をどう考えたら良いのか、簡単ではありません。しかし、私は思いました。自分はあまりにも事柄を外から眺めていたのではないか、と。聖書を開いてみると、例えば詩編にも復讐を求める言葉はたくさん出てきます。そういうものを私はあまり積極的に読んではきませんでした。しかし、復讐を求める心は私にもあります。本当は、それを神に訴えるべきだったのではないか。神に訴えることと本当にやり返すこととは違います。エステル記を読み、この歴史を追体験することが、本当は人間を復讐の歴史から解放するのではないか。抑圧された経験は誰にでもあります。親子ででも、社会ででも。そこで生まれる復讐心から解放されるには、まずちゃんと神に訴えることです。神は正義と公正を愛されると信じることです。そして復讐心から解放されるとしたら、それは倫理的な目標ではなく、神が下さる賜物以外のものではありえません。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...