2015年12月6日日曜日

ルカによる福音書第1章26から56節「新しい世界を拓く出来事」

あと一ヶ月ほどで2015年が終わります。皆さんにとっては今年はどのような一年だったでしょうか。私は、悲しみを覚えた一年でした。その一つは、私たちの国の行く末を思っての悲しみです。幸いにして神は私たちの礼拝に幼子を預けてくださっています。この子たちが大人になる10年後、20年後の社会は一体どうなっているのでしょう。ここのところ、権力者の嘘が日常の出来事になってしまいました。これもまた失望を生みます。権力が宿命的に持つ腐敗、というものがあるのではないかとさえ思います。そんな思いでこのクリスマスを迎え、おとめマリアのところへ来た天使の言葉が心にとまりました。マリアの胎に宿った子について、このように言うのです。「彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」マリアの胎に宿った子、イエス・キリストは私たちの王となられる。この一年の悲しみを覚え、主イエスの御支配に生きられるのであれば、それほどの幸いはないと私は思うのです▼フランスでテロがあり、シリアでは連日の空爆が続きます。イエスの御支配など一体どこに見られるのでしょう。イエスの時代から1000年ほど前の時代が舞台の旧約聖書サムエル記上第8章で、イスラエルの民は隣国ペリシテの脅威から自分たちの国を守ろうと、他の国のように王を求めます。つまり、自衛のために普通の国になろうとしたのです。しかし、それは実は神が王であられるのを退けることを意味しました。見えない神が王だなどというのは、彼らにとっては非現実的な理想主義に過ぎなかったのでしょう。王は民を搾取するものだという警告を聞いても民の気持ちは変わらず、やはり王を求めます。その後の歴史の経緯を見ても、結局は自衛力を高めようと王を求め、神の御支配を退けたことがイスラエル破滅の急所でした。そのために権力者は庶民から収奪し、富の寡占、貧富の格差の固定化、汚職、腐敗へと突き進むのです。しかし、神は民が王を求めたときに言われました。「今は彼らの声に従いなさい。」こうして、王が立てられた。それは、多分我々人間には、無理強いしても分からなかったからでしょう。神が王でいらっしゃると言うことが何を意味しているのかが。では、「今は」とはいつまでなのでしょう。それは「神の時が満ち」るまでです(讃美歌262)。その時が来て、おとめに宿ったとき、やはりマリアにも神がなさることは理解できませんでした。「どうして、そのようなことがありえましょう」と神の計画を聞いた彼女は言ったのです▼イエスが就かれた王座とは、金や銀でできた王座ではなく、十字架のことです。イエスの支配は、十字架にかかって我らを罪から救う御支配です。徹底して謙られた王キリストこそ、痛み、傷つく私たちの世界を救ってくださる。私はそう信じています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...