2016年1月31日日曜日

イザヤ書第66章13節「神が慰めてくださる!」

「母がその子を慰めるように、わたしはあなたたちを慰める。エルサレムであなたたちは慰めを受ける。」神は、母がその子を慰めるようにして私たちを慰めてくださいます。この言葉が既に慰めに満ちています。使徒パウロがコリントの教会の人々へ書いた手紙には、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。神はあらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので・・・」とあります。神は父として、慰めに満ちた方です。神を「父よ」とお呼びすることこそ、私たちの慰めです。私たちの父でいてくださる神は、母のように私たちを慰めてくださるのです▼子育てと聖書の会のおやどりの会では『こどもへのまなざし』という本から学んでいます。一昨日一緒に読んだところで、最近(1998年頃)、怒りを表す言葉が増えたと指摘しておられました。腹が立つ、頭にくる、ムカつく、キレる・・・。しかし、喜びや悲しみを表す言葉はちっとも増えていない。確かにそうだと思いますし、そういうところに社会の病理が現れているように思います。キリスト者は、喜びはもちろんですが、悲しみを大事にします。イザヤ書第6613節に「エルサレムであなたたちは慰めを受ける」とありましたが、この小さな「エルサレムで」という言葉に、深い悲しみが込められています。彼らの国は戦争で敗れ、人々は遠い外国に連れて行かれました。70年間の捕囚生活。生活が崩壊し、人と人とのつながりが断ち切られ、めちゃくちゃになった。悲しみの時代です。そんな人々が再び回復される。救われる。慰められる。あの預言者の言葉は、そういう意味です。或いは、コリントの信徒への手紙二では、「あらゆる苦難」、「悩み苦しむ」、「ひどく圧迫されて、生きる望みさえ失っていました」などという言葉が出てきます。これもまた悲しみの言葉の数々です。神は、悲しむ者を慰めてくださいます。ですから、神を信じる者は知っているのです。悲しむこと、悲しめること、悲しんで良い事、それがすでに慰めなのだ、と▼神学校の同級生にYさんという方がおられます。6歳の時にお母様を亡くしています。お兄さんに何度も問うた。「お母さんはどこに行ってしまったの。」「私たちは死んだらどうなるの。」お兄さんにも答えられない。厳しかったお父さんはぐったりと肩を落とし、悲しみと死の恐怖が家中を覆っていた。涙を堪えて前向きに生きようと言い聞かせる父の姿が、かえって、私に悲しみを深くし、死の勝利を強烈に印象づけた、と言います。しかし、同じコリントの信徒への手紙二の中に「神の御心に適った悲しみ」という言葉があります。Yさんは言います。私はその後神を信じて、悲しみ方が変わった。既に神学校で学び始めていた25歳の時、お父様が脳梗塞で倒れました。その時、彼女はまず神学校の礼拝堂に行き、泣きながら祈ったそうです。神を信じると神の前で悲しむことができるようになる。神を信じていても、愛する者を喪った悲しみがすぐに癒えるわけではありません。しかし、一緒に悲しんでくださるキリストがおられる。この方は、悲しみで心固くなり、悲しみの中で罪を犯すわたしを救ってくださる方。悲しみを神に打ち明け、罪を悲しみ、悔い改める。そこに神の御心に適う悲しみがある。神が、慰めてくださいます。   

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...