2016年2月14日日曜日

詩編第139篇1から10節「目には見えないけれど、確かにいるお方」伊能悠貴教職志願者

 「今日も教会に来てくれてありがとう。わたしはあなたのことを待っていた。」主なる神様は、私たちをこのように招いてくださいます。「あなたと出会えて本当にうれしい」と神様は喜んでいてくださいます。神様はいつでも私たちのことを探していてくださるお方なのです。
 ですが、私たちは時に「神様が喜んでいる」ということが、身近に感じられないこともあるかもしれません。自分と何の関係があるのかよく分からないのです。しかし、神様の喜びとは決して神様の自己満足でもなければ、私たちの思い込みでもありません。神様の喜びに共に預かるということは、素晴らしい世界への道の始まりの出来事なのです。私たちは、今ここで、その始まりの門の前にいるのです。神様の言葉を聞くことは、新しい世界への歩みの始まりなのです。
 共感とは栄養のようなものです。共感されず、共感できない時は、何をしていても楽しくありません。ですが、もし自分のことを分かってくれる人が一人でもいれば、新しい体験をしてみたくなる。自分のことを分かってもらえる人がいるならば、その人の人生はもっと色鮮やかに輝くものとなっていくのです。共感とは、とてつもなく素晴らしい力を持っています。
 本日の詩編の御言葉では、主なる神様がどのような時でも人の思いを知っていてくださることを謳っています。立ち上がって喜ぶときでも、たとえ座り込んでしまって嘆くときであっても、ひと時も欠かさず神様は分かっていてくださるのです。私はこの御言葉を通して神様と出会いました。神様というお方は、単におられるだけではなく、あなたがどんな時に何を思っているのか、楽しんでいるのか、悲しんでいるのか、そういったことを気にかけていてくださるお方です。
 私たちの気持ちのすべてをご存じのお方が、今ここにおられる。その方を礼拝できている時間とは、なんと素晴らしいひと時でしょうか!「あなたを招いていたよ。ここに来てくれてありがとう。ここはあなたの居場所だ」と語りかけてくださる。これを聞いた者にとって「教会」という場所は、単に来たいから来るだけの場所ではなくなりました。すべてをご存じの方が「いらっしゃい」と招いてくださる場所になったのです。もはや私たちが来たいかどうかに関係なく、私たちの居場所となったのです。

 主なる神様の出来事にこれからも共に参加しましょう。神様に従うことは、何にもまして喜びに満ちたものなのですから。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...