2016年2月7日日曜日

マタイによる福音書18章18から20節「共に祈ろう!」

昨日、入院中の方や自宅療養されている方のところで、20節の御言葉をご一緒に読みました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」主イエス・キリストが今ここに共にいてくださると信じて。二人または三人がキリストの名によって集まるというとき、ただ単にそこで一緒にいるだけではありません。当然、そこでは祈っているのです。しかも、他者のために祈ります。そういう祈りを教会では「執り成しの祈り」と呼ぶこともあります。自分が弱い日にも他者のために祈り、また他者が祈ってくださることでわたし自身が支えて頂きます。そういう祈りの群れに、キリストが共にいてくださいます。カンバーランド長老教会の始まりは、181023日から4日の徹夜の祈りでした。小さな丸太小屋でマカドゥ、ユーイング、キングという三名の伝道者が共に集まって祈り、新しい教会の灯が点いたのです。キリストが下さった罪の赦しの福音をまだ知らない者たちのために、新しい教会の歩みが始まりました。ここでも祈る群れに神が出会ってくださったのです▼マタイはとても具体的な祈りの課題を考えていたようです。今日の18節以下は15節からの話に続いています。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と始まっています。教会の誰かが罪を犯した。その時、教会の実力が一番問われます。しかも、「あなたに対して」です。ある人が第三者に対して、ではありません。被害者は自分なのです。その時、もはやそれは罪を犯した当人の問題であるだけではなく、被害者であるあなたの問題、そこでその人にどう振る舞い、どう祈るか、というあなたの問題だと主イエスはおっしゃいます。これは、ちょっときつい言葉であるかもしれません。ガラテヤ5:24—6:4には同じ問題が取り上げられています。「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら(略)柔和な心で正しい道に立ち返らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。」具体的には、うぬぼれやねたみに気をつけるように、と言うのです▼作家の宮部みゆきさんが『悪い本』という絵本を書いています。絵は別の人です。「この本は悪い本。あらゆる悪いことを知っている。あなたはそんな品を見たくないと思うか?それは違う。必ず見たくなる。誰かを嫌いになるとき、誰かにいなくなってほしいと思うとき。必ずこの本のページをめくるでしょう。そうしたら、あらゆる悪いことを教えてあげよう。そのとき、あなたはなんでもできるようになる。きらなだれかをけすことも、きらいななにかをこわすことも。」そういう本です。とても怖い本です。何が怖いかと言えば、自分が怖くなる。自分の中の悪に気づく。誰かが罪を犯したとき、うぬぼれとねたみが問題になるのです。それは、王様のように振る舞いたいという衝動です。気に入らない者を消したい、壊したい・・・▼罪を前にしたとき、教会は一体どうすればいいのか?祈るしかありません。しかも、一人で祈るのではないのです。集まって祈る。どうぞあの兄弟の罪をおゆるしください、と。それは自分は正しい高みに立ってする祈りではありません。あの兄弟が罪人の群れに帰ってきますようにと祈る。そうして、どうしようもない私たち罪人を赦してくださるキリストをあの人と共に仰ぐために、祈るのです。

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...