2016年3月31日木曜日

詩編第12篇「言葉は軽くなってしまったが」

「主よ、お救いください。」この一言にどれほど大きな願いが込められていることであろうか。人は友に偽りを言い、二心を抱く。言葉が軽く、とても信頼できない。一体、何を信じたら良いのだろう。誰の言葉を信じたら良いのだろう。「主に逆らう者は勝手にふるまいます。人の子らの中に、卑しむべきことがもてはやされるこのとき。」だが、私だけは主を信じます。「あなたの仰せは清い。」主を信じて生きることにおいては四面楚歌であっても。

2016年3月27日日曜日

ヨハネによる福音書20:19〜23「あなたがたに平和があるように」

この一週間をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。私は、やはりベルギーのブリュッセルで起きたテロ事件のことを知り、心を痛める一週間でした。あと何時間かして朝を迎えたとき、彼の地の教会はどのような思いでイースターの礼拝を献げるのでしょう。今週は受難週で、毎日祈祷会をしました。必ず主の祈りをしました。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」主よ、この祈りを今日私たちに新しくしてください!▼ニュースなどを見聞きすると、テロを起こした「イスラム国(ISIL)」と名乗る集団のねらいは分断だと言われます。こういう事件を通して欧米にイスラムへの疑いや反感、不信が増して差別が起こる。そうすると欧米のイスラム教徒の反発感情はますます高まり、憎しみが生まれ、新たなテロの温床になる・・・。本当に恐ろしいことです。しかし、考えてみると、ISIL側から見ると、既に自分たちは分断されてきたという感覚があるかもしれません。何もない所に欧州人が来て勝手に支配し、油で商売し、国境線を引き、武器を売りつけ、戦争をして自分たちを分断してきた、と見えているかもしれません。今、世界は和解の福音を必要としています。今必要なのは赦しの言葉だし、愛の言葉です。昨日、キング牧師の「あなたの敵を愛せよ」という説教を読みました。キング牧師は言います。ある人はあなたの歩き方や肌の色や髪の毛の長さやでももってあなたを嫌う。あなたがしてきたことのためにあなたを嫌う。共産主義は民主主義を嫌う。しかし、民主主義は大衆の生活必需品を奪って上流階級に贅沢費を与えてはいないか。まず自分たちの姿に気づこうとキング牧師は言います。そして、主は「あなたの敵を愛せ」と言われたのであって、「あなたの敵を好きになれ」とは言われなかった。愛するとは好きになることよりも偉大なこと。相手を理解し、贖罪していく善意のこと。憎しみに憎しみで返すのはもう止めよう。愛には相手を変える力すらある。相手の憎しみを説かすことができる。憎しみにはそれができない。イエスが示してくださったこの唯一の道に立ち返ろう。そういう説教でした▼主イエスは言われます。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」赦すとは、キング牧師が言うとおり、自由にすることです。興味深いことにこの「赦す」という動詞は熱が「下がる」という意味もあります。そう、罪は熱病のようです。熱に浮かされるように、私たちはいとも簡単に罪の奴隷になってしまう。金曜日の受難週祈祷会で、伊能伝道師がキリストが十字架にかかった場面を読んでくださいました。キリストは十字架にかけられた。私がかけたのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」そう祈るように教えてくださったのは、十字架にかけられたお方です。人の罪を赦すのは、言葉で言うほど簡単なことではありません。誰でも知っていることです。痛みを伴います。そうやって痛むときにしか、私たちには分からないのです。キリストの十字架の御苦しみは。神が私をも赦してくださった。神は私の憎しみに憎しみで応えるのではなく、愛で応えてくださった。それは、この和解の福音、罪の赦しの福音を私たちがこの世に告げるためです。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」

2016年3月24日木曜日

ヨハネによる福音書17:1-26

1.
ヨハネによる福音書は最後の晩餐の場面をとても長く書いている。全部で21章の福音書の内の5章、4分の一に近い。しかも、いわゆる受難週の記事の殆どがこの晩餐の場面だ。その最後の晩餐を覚える祈祷会をこの木曜日に献げている。キリストがしてくださったように私たちもするのだ。主が十字架に進んでくださったことを心に刻み、覚えるために。
そして、その長い最後の晩餐場面の最後に書かれているのは、主イエスの、これまた長い祈りの言葉である。そう。ヨハネによれば、あの最後の晩餐を支配していたのは、主イエスの祈りだったのだ。主が祈られた祈りの言葉によって、主イエスと弟子たちとの食事の場面は終わっているのである。しかも、ヨハネは他の福音書のようにはゲツセマネ(オリーブ山)の祈りを報告してはいない。つまり、この最後の晩餐の最後を締めくくる主イエスの祈りは、ヨハネが伝えるゲツセマネの祈りにも等しい。その祈りを、主は、弟子たちと一緒にいる場所で献げてくださったのである。このことがすでに主イエスの愛に満ちたなさり方であるのではないだろうか。
ヨハネは、心を込めて、今主イエスはどこに折られるのかということを問い、また、私たちに告げている。今、復活したイエスは父の御もとに折られる。父の御側近くにおられる。そして、父の一番お近くにいて、祈っておられる。何を祈っておられるのか?「世から選び出してわたしに与えてくださった人々」(6)のために主は祈られた。そして、「彼らのためだけではなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20)とも祈ってくださった。そう、主イエス・キリストは、今も私たちのために祈っていてくださる。十字架を目の前にしたあの夜もそうでいらしたように、今日も主は私たちのために祈っていてくださる。

2.
この祈りの中でわたしの忘れられない言葉の一つは、14節だ。「わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」主はわたしのことをよく知っていてくださるのだと改めて思う。この世界の中でキリスト者として生きることが何を意味しているのか、主はよくご存知でいてくださるのだと今さらのように思う。いや、わたしなどよりもずっと深くその事を知り、しかもそこで受けるべき憎しみを誰よりも経験されたのは、主イエス様ご自身なのである。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」私たちは山ごもりすることもできないし、無人島に逃げることもできない。キリストを憎むこの世で生きていく。主は誰よりもその生活の労苦をご存知で、その上で、この世界で私たちを父がお守りくださいますようにと祈られたのだ。

3.
もう一つ、心に残るのは、3節である。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」とても不思議な文章である。「永遠の命」イコール「知ること」だ。知ることが永遠の命につながるとか、知れば永遠の命を得られるとかいうのではない。父と御子を知ることこそ、永遠の命そのものだと言われるのである。一体、何を意味しているのだろうか?
続く4,5節ではこのように祈られている。「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」ここに、「栄光」という言葉が出てくる。二回も出てくる。恐らく、御子イエスと父なる神を知るというのは、栄光に満ちた方としてこの方を知る、あるいは、この方に栄光を帰す、ということなのではないかとわたしは思う。
神に栄光を帰す。「栄光」という言葉は、もともとは「重い」という意味だ。重んじるという日本語もある。神を重んじる、イエスを重んじる。それは、思考の世界の話ではない。実際の生き方の話だ。私たちの実際の生活の仕方は、一体何を重んじて生きているのだろう?例えば、このようなことを考えてみてもいい。一ヶ月働いて給料を手にしたとき、或いは年金を手にしたとき、一番最初に何のために使うだろう?最初に何を買うのだろう?もしかしたら、それがあなたが今一番重んじているものなのかもしれない。
神を重んじる、神の栄光。この「栄光」という言葉がこのヨハネによる福音書の中でどのように使われているかを調べると、とても興味深い。一つの論文になるほど豊かな意味がある。ここでは急所だけに留めよう。この言葉は、最後の晩餐の場面で集中的に使われている。つまり、イエスが栄光をお受けになる、そしてイエスが栄光をお受けになることで父が栄光をお受けになる、それは、イエスが十字架にかけられることによって栄光をお受けになる、という意味なのである。イエスの重み、神の重み、それは、十字架でこそ明らかになった、とヨハネは訴えるのだ。
何と言うことであろう。そうであるのならば、自体はひっくり返ってしまう。私たちが神を重んじる、イエスを重んじる、という以前に、神が私たちの命を重んじてくださっているのだ。イエスが私たちの命を重んじてくださっているのだ。だから、イエスは、私たちに永遠の命を与えるために十字架にかかってくださった。だから、主イエスはおっしゃったのだ。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と!

4.
だから、私たちはこの世で生きることができる。どこかに逃げてしまう必要はない。なぜ?主は祈られたではないか。「彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」そう。主は、今イエスを信じる者のために祈り、そして、これからイエスを信じる者のために祈ってくださった。彼らにもまた永遠の命が与えられていることを信じるように、と。

私たちはこの食卓を囲む度に、このようにしてキリストがご自分の肉を裂き、血を流してくださったことを思い起こし、記念し、そして、この良い知らせ(福音)をのべ伝えるために今わたしもまた祈りに導かれていることを、知るのである。 

2016年3月22日火曜日

ヨハネによる福音書14:1-14

1.
「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。」使徒トマスの言葉である。主は言われたのだ。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じ子とを言っておく。(13:33)」と主が言われたから、不安になったのだ。そして、これは私たちの不安でもある。私たちの恐れでもある。主よ、どこに行かれるのですか?主よ、どこにおられるのですか?主よ、今何をしておられるのですか?トマスと同じように問いたくなることはいくらでもある。あの震災の時に、テロが起こるときに、同胞が拉致されたときに、戦争が終わらないときに、難民があふれかえっているときに、私たちも問わないわけにはいかない。家族の病気の時に、自分自身の肉体の痛みのために、仕事が行き詰まったときに、人と関わることに疲れ果てたときに、私たちも問わないわけにはいかない。主よ、どこにおられるのですか?わたしが行くことのできないどこへ行ってしまわれるのですか?
これは、イエスの言葉を聞いての質問である。「 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」そう言われても、トマスは納得しなかった。「分かりました、信じます。」とは言えなかった。もしかしたら、そう言われても、トマスには絵空事のように聞こえたのかもしれない。父なる神様の所には、私たちが住むための場所がある。主イエスがそのための場所を準備してくださる。そう言われても、明日からわたしは一体どうやって生きていけば良いのですか?今日のわたしの生活はどうなるのですか?具体的に言ったら、イエス様、一体どういうことなのですか?トマスが問いたかったのは、そういうことなのかもしれないともフト思う。
使徒フィリポも同じように主に問う。「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます。」イエス様、結局、どういうことなのですか?父なる神様は一体何を考えておられるのですか?私たちは一体どうやって父なる神様の御心を知れば良いのですか?

2.
主イエスは何とお答えになったのであろうか。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『私たちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。」
主イエスは言われるのだ。わたしを見ていれば、父なる神さまが今一体何をしておられるのか、よく分かるだろう、と。私たちには、神さまのお心が分からなくなってしまうことがあるのだ。今、水曜日の祈祷会ではヨブ記を読み始めている。ヨブもそうだったのであろう。主の御心が見えない。あんなにわたしに祝福を下さった方が、どうして今このような仕打ちをなさるのか。サッパリ分からない。どうしても納得がいかない。主よ、なぜですかと問わざるを得ない。そういうことが私たちには起こる。一体、どうしたら神さまの御心が分かるのか。主イエス様はおっしゃる。わたしを見れば良い。わたしを見ていれば、父の御心は分かる。
「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。」
業そのものによって。主が行う業。それは、十字架を受け入れ、そこに向かって行かれる業ではないだろうか。私たちはよく知っているのだ。神の御心を。神の御思いを。神が何を願っておられるのかを。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」そういうご自分の業を見て、そこに父の御心がはっきりと示されていることを信じよと主は言われるのである。

3.
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」十字架にかけられたキリストを抜きにして、父なる神の御心を知ることはできない。主はそうおっしゃったのではないだろうか。このお方が、更に言われる。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」だから、私たちは祈りの最後に「主イエス・キリストのお名前で祈ります」と言うのだ。主イエス様のお名前で祈ることを主が御自ら教えてくださったのである。「わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。」

十字架のキリストのお姿に父の御心を知った者は、祈りが変えられる。家内安全。商売繁盛。祈りは色々ある。そうなったらどんなに良いことか。神さま、今何をしておられるのですか?今どこにおられるのですか?そう問わざるを得ない現実が全て消えてしまったとしたら、どんなにすばらしい事であろうか。そのことを願うのは、自分勝手な願いなのか?いや、そのようなことはないだろう。しかし、「主よ、どこに?」と問わないわけにはいかない出来事は、私たちの目の前から消えてしまうことがない。それは、残念であるが、本当のことだ。神を信じれば何でも順風満帆、上手くいきますとは、わたしは残念だが約束することができない。しかし、主は、何でも願えと言ってくださった。しかも、わたしの名によって願えと言ってくださった。主イエス・キリストのお名前で私たちは祈る。祈る時に、知るのだ。イエス様が示してくださった、父の御心を。わたしが滅びるのではなく、永遠の命を生きることをご自分の喜びとしてくださった方の御心を。だから、わたしが約束できることは、家内安全でも商売繁盛でもなく、どんな困難の中でも、どんな辛い現実の中でも、神はあなたを愛することを喜びとしておられることだし、神はあなたが永遠の命に生きることを喜びとしてくださることだ。その事だけは、責任を持って、お約束することができる。主イエス・キリストの御名で! 

詩編第11篇「例え世の秩序が覆ろうとも」

「世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」。このような声の何と大きな事か!本当は巷に響く声が正しいのではないかと思い込んでしまうことはないか。しかし、「御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」まぶたというのが興味深い。主が眠っていてご覧になれないことなどないのだ。主は必ずその「御顔を心のまっすぐな人に向けてくださる。」十字架のキリストの故に、その目はあなたにも向いているのである。

2016年3月21日月曜日

ヨハネによる福音書13:21-30

1.
主イエスは心を騒がせて、おっしゃった。
主のお心が騒いだという言葉に、私の心もまた騒がないわけにはいかない。主がその心を騒がせたのは、弟子たちの足を洗ったすぐ後のことだ。しかも、私がしたように、お前たちも互いにしなさいと、私を模範にしなさいとおっしゃったすぐ後のことだ。心を騒がせないわけにはいかない。ならなら、ここで主が言わなければならないことは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」というお言葉であったのだから。
主はどんな思いでこの言葉を口にされたのであろうか。どんなに、胸の張り裂ける思いでいらしたのだろうか。主は「ご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」のだ。そして、彼らの足を洗ってくださった。その内の一人が、主イエスを裏切ろうとしている。そのことを主ご自身が誰よりも早く悟られて、ご自分の口からそのことを告げなければならなかったのだ。何と言うことであろうか。
そして、同時に心を痛めないわけにいかないのは、弟子たちの致命的な鈍感さである。「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』」とおっしゃって、イスカリオテのユダにパン切れを浸してお与えになった。弟子たちは、それを見ても、悟らない。「座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」主の御心を覚者は、だれ一人としていなかった。だれも主の悲しみ、裏切られる辛さ、寂しさ、心の避ける思い、心騒ぐ主の御心を知る者はいなかったのである。

2.
ユダ自身もそうである。
「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』」とおっしゃりながら、ユダにお与えになった。ユダはパン切れを受け取った。その時、サタンが彼の中に入ったのである。主がパン切れをユダに渡さなければよかったのだろうか?そうではなかろう。ユダは、自ら選んで主の手からパン切れを受け取ったのである。そう、あのとき、鈍かった弟子たちの中で、恐らくユダだけが分かっていたのだ。主が何をおっしゃっているのかを。自分がしようとしていることを主がご存知なのだと、ユダだけが知ったのだ。だから、ユダには、あの時パンを受け取らないということもできた。しかし、彼はそうしなかった。パンを受け取った。その心にサタンが入った。自ら主を捨てることを選んだ心にサタンが住んだのだ。

「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出ていった。夜であった。」
聖書はそう伝える。これは「夕食のときであった」と2節に既に記されていた。わざわざ、ここで言葉を重ねるようにして「夜であった」という。恐らく、これは単に時間を書き留めておいたわけではない。ユダが出ていった場所は、夜だった。夜そのものだった。暗闇の中だった。世の光、イエス・キリストの光を避けるようにして、ユダは外に出て行ったのだ。

ユダの記事を読むと、心を痛めないわけにはいかない。これは私の物語と言わないで済む者は、恐らくいないのではないか。
はっきりと主のお言葉の意味が分かっていながら、あのパン切れを受け取ることを選択してしまう。そうやって「しようとしていること(27)」をしているつもりで、でも、実はサタンに心を奪われているに過ぎない。それは、私の物語。悲しみつつ、そう告白せざるを得ない。

3.
主が、その御心を騒がせておられる。
実は、この「騒ぐ」という言葉は、ヨハネによる福音書の中で、あるメッセージを秘めた言葉なのではないかと思っている。主の心が騒いだ、という意味で使われているのは、11:33、12:27、そして今日の箇所である。
11:33はラザロが死に、姉であるマリアが「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言って泣き、他の者たちも泣いているのをご覧になって、心に憤りを覚え、「興奮」なさった。イエスは涙をも流して折られる。
ぬ12:27では、主はこう言われる。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」「この時」とは、十字架のときである。キリストは十字架にかけられるご自分の時を迎え、心を騒がせた。

これら三つの箇所には、共通点がある。どれも、十字架と深い関わりがあるのだ。
ヨハネによる福音書を読むと、ラザロの復活が大きな契機になって、そこから一気になだれ込むようにして主は十字架にかけられる。あのとき騒いだ主の心は、十字架への決意を含むものであったとさえ言いうる。
第12章の関わりは明らかである。主はそれを避けさせてくださいと父なる神に祈ることなく、ご自分の時をお引き受けになったのである。
そして、今日の箇所。ユダの裏切りによってイエスは捕らえられ、十字架にかけられることとなった。この上なく愛するご自分の弟子の裏切りによって。

しかし、この福音書の重大な場面でこの「騒ぐ」という動詞が使われている箇所はここだけではないのだ。14:1と27に登場している。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
どちらも、主が弟子たちにおっしゃった言葉だ。そして、どちらも、「騒がせるな」と命じておられる。心を騒がせるのではなく、主を信じるのだ。主が与えてくださる平和を信じるのだ。怯えてはならない。

そう。私たちには、心を騒がせないわけにはいかない出来事がいくらでも起こるのだ。私たちには、怯えてしまう出来事が次から次へとに起こるのだ。介護、看病、愛する者の死、仕事、進路、社会のこと、お隣さんのこと、夫婦仲、子どもの教育、成長、・・・。数えればきりがない。しかし、怯えてはならない。主はそう命じられた。なぜか。主は私たちに平和を下さった。どうやって?だれよりも深く、ご自分の心を騒がせながらも十字架への道を受け入れて、そのためにご自分の弟子の裏切りをも受け入れて、それでもなおその弟子を愛して、足まで洗って、そうやって愛して愛し抜いて、十字架にかけられた。私たちの心が騒いでしまうことのないように。だから、もう大丈夫。安心しよう。神が下さる平安をもって生きよう。 

2016年3月20日日曜日

ヨハネによる福音書12:12〜19「小さな王たちが跋扈する時代に」

昨日のサタデーパレットで主イエスが十字架の上でご自分を十字架につけた者たちを見つめながら祈られた言葉の話をしました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」主はそう祈られました。それを聞いた小学3年生の子が言いました。「優しいじゃん!」そうです。私たちが信じる神、イエス様は優しいお方です。柔和な方です。子ろばに乗って私たちのところへいらっしゃいます。私たちを征服するために軍馬に乗って来るのではないのです。今日、優しさを求める全ての人を神は招いてくださっています。世の巷にあふれかえっている言葉は、赦しの言葉ではなくて裁きの言葉です。断罪したり、怒ったりする言葉です。関係を断ち切ってしまう言葉ばかりが耳に飛び込んできます。そして、つい、本当はそんなことしたくないのに、同じような言葉が自分の口からもでてきてしまいます。それに気づくと自己嫌悪に陥ります。それは、まるで小さな王様にでもなってしまったかのようです。主イエスはロバに乗って私たちのところへ来てくださる王様です。イエス様が王として来られたのは、私たちが王様のままでは、私たちがどうしたって救われようがないからです▼イエスと一緒にエルサレムまで旅をしてきた群衆がいました。彼らはベタニヤ村でイエスがラザロという若者を生きかえらせた奇跡を目撃して、ここまで付いてきたのです。そして、エルサレムでなつめやしの枝を振ってイエスをお迎えしたのは、ちょうど祭りのために上京してきていた巡礼者が、その話を聞いたからでした。彼らは皆巡礼者です。巡礼者が死者の中からの甦りといういのちの福音を耳にして、イエスを王としてお迎えしていたのです。死というのは、単なる生命活動の停止ではないのではないでしょうか。それは、関わりの死です。愛の絆の死です。死を迎えた本人だけではなくて、その人を愛する者にとっても、その人を喪うことで自分の何かが死んでしまいます。死はそういう出来事です。今日、伝道師任職式があります。伊能悠貴教職志願者が伝道師になります。伝道師になるというのは、説教者になるということです。小さな王たちの大きな声しか聞こえないようなこの世界の中で、キリストのいのちの福音を宣べ伝える巡礼者の一人になることです。私がかつて仕えていた教会で出会ったMさんは、まだ60歳くらいの時に多発性骨髄腫が見つかり、非常に進行が早く、見つかって短い期間で最期を迎えられました。ご家族はいのちが長くないことを告げるときに激しく動揺するのではないかと心配しました。しかし、Mさんはおっしゃった。自分は若い頃に洗礼を受けて、たくさんの説教者が語る福音の言葉を聞き続けてきた。ここで動揺しては、それが無になってしまうではないか、と。伝道師が生まれるというのは、このようないのちの福音を語る巡礼者が新しく生まれるということに他なりません▼聖書に登場する巡礼者は、しかし、ほんの数日後にはイエスを見捨て、それどころかイエスを十字架につけろと叫びます。それでは、彼らの言葉は空しいものに過ぎなかったのでしょうか。そうではないと私は信じます。神は、私たちのことを私たち以上によく知った上で、それでも私たちを信じてくださいます。なぜなら、この方、私たちの王の優しさは死にも罪にも打ち勝つ優しさだからです。この方があなたの神。全てをバラバラにするこの世界に生きるあなたの神はこの方です。

2016年3月17日木曜日

詩編第10篇「神が顧みてくださるから」

神に逆らう傲慢な者は貪欲で、自分の欲望を誇る。彼らは高慢で、何事においても神を無視する。神に従う人は貧しい。そうならざるを得ない。「立ち上がってください、主よ」と祈り、主が必ずご覧になり、顧みてくださることを願う。主こそ王、とこの貪欲な世界で信じる。貧しい者は幸いである、と言われた主イエスの御言葉がここに響く。「神の国はあなたがたのものである。」真の王があなたを救ってくださる。それを信じよと主は言われる。

2016年3月10日木曜日

詩編第9篇「主以外の救いを持たぬ乏しき者であろう」

主の正しい裁きを求めて訴える切実な祈りの言葉である。我らも共に祈ろう。「憐れんでください、主よ。死の門から私を引き上げてくださる方よ。」本気で神を信じより頼んでいるから、苦しんでいるのだ。世に溢れる他の助けを求めないから。しかし、こうして求める者を神は必ず救ってくださる。「あなたこそいける神の子キリストです」と告白する教会に陰府の門に対抗する天の鍵を授けてくださった方は、ほめ歌(12節)をも授けてくださる。

2016年3月6日日曜日

ローマの信徒への手紙第5章1から11節「我らを欺かない希望」

東日本大震災から5年が経とうとしています。私は4月に荒浜に立ち、言葉を失いました。あの時、震災と原発事故の意味が繰り返し問われました。しかし、私は何といったら良いのか分かりませんでした。8月のことです。私に説教の指導をしてくださっている加藤常昭先生が、それは人としてはもしかしたら誠実なのかもしれないが、牧師としては不誠実だと指摘されました。今こそ語るべき福音の言葉があるはずだ、と。迂闊でした。あの日から今日に至るまで、被災地で福音を宣教し続けたキリスト者達がいます。彼らは福音の言葉を語り続けました。もちろん、牧師だけではありません。多くのキリスト者が隣人に耳を傾け、また、語り続けてきました。神を信じて。試練を受けている今こそ、恵みの時なのだと信じて▼竹森満佐一牧師は今日の聖書の言葉は、これを書いたパウロが自分の信仰をぶっつけるようにして語っている、と言いました。その通りです。「神との間に平和を得ている。」それは単なる知識では意味がなくて、苦しんでいる時にどのような意味を持ちうるのか、ということが一番大切です。あの震災の時、多くの人が今私たちの社会は危機にさらされていると考えたと思います。多くの人が未曾有の災害だと言いました。しかし、僅か1年前にハイチでも大震災が起こり、その時は31万人の人が犠牲になりました。スマトラ沖での震災も記憶に新しいことです。あの時のわたしたちの感覚に表れた言葉にならない思いは、もしかしたら、今でも解決していないのではないかと思います。あの時の絆ブームでは問題の根はいやされなかったのです。6節に「わたしたちがまだ弱かったころ」とあります。この「弱い」には「病気」という意味もあるそうです。わたしたちは病気になってしまっている。人の痛みへの鈍感さやおそろしいほどの忘れっぽさ。ただ弱いからと言うだけでは済まされない。それは、はっきり言えば罪です。しかし、その罪のためにキリストは死んでくださいました。私は神の敵なのに。キリストが死んでくださったのは「罪人であったとき」です。見込みもなく、良いところもない、反省もしない私のために、キリストは死んでくださいました▼だから、神との間にわたしたちは平和を得ています。先日荒瀬牧彦先生に教えていただいたのですが、最近ハイチにカンバーランド長老教会が生まれたのだそうです。今このニュースを聞くのは、私たち日本の教会への神の憐れみであると思います。彼の地には私たちと同じ神との平和を喜んでいる信仰の仲間がいるのです。神との平和に生きる者は苦難をも誇りとします。この「誇る」は口語訳聖書では「喜ぶ」と訳されていました。苦難を喜んでいる。やせ我慢でも強がりでもありません。苦しんでいるとき、私たちは自分を喜んだり誇ったりすることはできない。神を望むしかなくなってしまいます。他にはないから。だから苦難を喜ぶと言える。そして、神がこんなに罪深い私のためにキリストをくださったから、苦しんでいても神の恵みを信じて、耐えることができます。この忍耐が生む練達とは、悲しみや喜びに無感動になるのではなく、却って本当に悲しみ、喜べるようになることです。その人は傷つきます。しかし、その涙を神にだけ向けます。だから、希望を知っている。この希望は私たちを欺くことがないのです。深く傷つき病んでいる世界に福音を届けるために、私たちは今日神を礼拝しているのです。

2016年3月5日土曜日

ヨハネによる福音書6:16-21 「命の言葉を聞き続けよ」

主イエスが「わたしだ」と言って、舟に近づいてくださいます。「わたしだ」で通じ合える信頼関係を、主は弟子たちと持っておられたのでしょう。今朝(2011年3月13日)は急遽、説教テキストを変更しました。この「わたしだ」という御言葉に聞き入りたいからです。地震の後、訪問と電話で安否を確認して回りました。無事な姿を見、電話の声を聞いて、どんなに嬉しかったことでしょう。何よりも、私たちは知っているのです。主イエスご自身が、近づいてきてくださっているのです▼このとき、弟子たちはガリラヤ湖にいました。距離を測ると、ちょうど湖のど真ん中です。強い風、湖は荒れ、小さな舟を襲います。しかも夜です。何と人間の力の無力なことか。しかも、そこに主イエスがおられませんでした。どうして、最も主の助けを必要とするこのときに、主イエスはいてくださらなかったのでしょうか。何でこのような嵐がわたしたちを襲うのか。主イエスはわたしたちをお見捨てになったのか。ここはガリラヤ湖です。弟子たちの中でペトロを初めとする数人はこの湖で漁師として生きてきました。しかし、今、そのような経験も何の役にも立ちません。どうして神はこのようなことをするのか。私たちはそう考えてしまうのです▼しかし、聖書は私たちの目を違うところへ向かわせます。イエスが湖の上を歩いてこちらへと来られるのです。イエスは凪のときに来られたのではありません。順風満帆のときに来たのではありません。小さな舟が真っ暗闇の中、大風と波に飲み込まれそうになったときに来てくださったのです。しかし、弟子たちはそれを見て恐れました。湖の上を歩いてくるなどというあり得ない出来事に恐れたのでしょうか。それもあるかもしれません。それ以上に、弟子たちは決定的なことを見失っていたのです。「わたしだ。」という主イエスの言葉は「わたしは神である」という意味でヨハネが使う言葉です。わたしはお前の神だと言ってこの沈みそうな舟に近づいてくださる方がおられる。弟子たちはそのことを見失っていたのでしょう。この方が「わたしだ。恐れることはない」と言われるのです。このようなときだからこそ、命を得させる神の言葉を聴き続けましょう。望みを拓く命の御言葉を。

(これは2011年3月13日主日礼拝での説教です。)

2016年3月2日水曜日

詩編第8篇「もう、讃美するしかないのです」

詩編作者は満天の星を仰いで、月や星を配置された神の指の業を思う。主の御名の力強さは全地に満ち、天に威光が輝く。それを幼子、乳飲み子がたたえる。それは、決して一般論ではない。知識に過ぎないのでもない。偉大な主が、このわたしを御心に留めてくださる。神に僅かに劣るもの、しかしなお栄光と威光を持つものとしてわたしを造ってくださった。何と畏れ多いことか。言葉を失う。ただただ、全地に満ちる主の御名を讃美する。

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリス...