2016年4月24日日曜日

ヨハネによる福音書21:1-25「主を知る喜び」

 「神」聖書の告げる「主なる神」さまは、私たちの口で表現し得ないお方です。人間の理解を超えるお方です。捉えても捉えても、捉えきれないお方ですから、神ご自身をお伝えすることは不可能なのです。となると、説教するというのは、人間には決してできないことと言える。そして、理性的に考えれば、その通りなのだと思います。私はいままでずっと、自分の中に響いている「お前の語る神は神ではない」という声と戦っておりました。今もなお、戦っているのです。その意味で、信仰の戦いとは、何にもまして自分との戦いです。自分の知っていることと、聖書の告げることとの間での戦いです。私たちは聖書の言葉を聞く時、自分の常識とぶつかることは当然です。「聖書は、いったい何を言っているのだ?」そう思う方が、純粋に聖書の言葉を聞けていることが多いのです。しかしなお、その言葉を聞き続けるかどうかが、私たちに問われていることだと思います。
 「主を知ると言うことは?」ヨハネ福音書21章は、復活後の主イエスが姿を現す場面です。福音書の描くことは、不思議です。4節などを見ると、「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」とあります。実際に主イエスが来られたときに、私たちもまた、その方を主であると認めることができるかどうか、これは非常に大きな問題です。私たちは問いたくなります。「どうしたら私たちは主イエスを知ることができるのでしょう?」主イエス・キリストを私たちが知るということは、まことに奇跡的な出来事なのです!

 「全知者を知るということ」主を知り、主を信じるということが、あまりにも私たちから遠いことであるとわきまえていたペトロ。彼は信仰の挫折を経験した人物でした。主を3度も知らないと言いました。しかし、それでも主イエスは問われたのです。「ヨハネの子、シモン。あなたはわたしを愛するか。」この質問は、本当に心えぐられる質問です。人間的な言葉を失ったペトロは、どのように応えたら良いか分からなかったはずです。しかし、もはや根拠を自分にはおかず、主に根拠を置く言葉で応えるしかなかったですし、応えることができるようになっていったのです。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」全知全能のお方を知るということは、私たちに根拠を置くいっさいの言葉を投げ捨てることです。すべてをご存じのお方が、「わたしを愛するか」と私たちに問い、私たちはこの方の言葉で「愛していることを、あなたはご存じです」と応える。そこに自由があり、希望があります。私たちの歩みが、主を知る一週間でありますように。それは自由であり、喜びの歩みなのです!

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...