2016年5月8日日曜日

使徒言行録1:3-11「神はいつになったら正しいことをなさるのか?」

4節にイエスが「彼と食事を共にしていたとき」という言葉があります。これはもともとは「塩を共にする」という字でできあがった言葉です。今回の説教のためにいろいろ勉強をして、この言葉がとても気に入ってしまいました。夏場に水だけを飲んでいても熱中症を防ぐことはできません。米や肉や野菜があっても、塩がなくては命をつなぐことはできません。塩を共にするという言葉のイメージが、私には、命を共にする場所、というふうに聞こえました。そういうところで、主イエスは、弟子たちに神の国について話されました。そうです。キリストが神の国が来たと私たちに告げてくださるのは、命を共にする生活の現場なのです。育児や介護の現場、ご飯の支度をする現場、毎日の仕事をし、共に食卓を囲む現場なのです。昨日近所を散歩しながら説教の準備をしました。思いめぐらしながら、「ここも神の御国なれば」という讃美歌が響いてきました。「ここも神の御国なれば、あめつち御歌を歌い交わし、岩に木々に、空に海に、たえなる御業ぞ、あらわれたる。」私はこの町で塩を食って生きています。この場所で神の国が来たと告げるキリストの福音を聞いています。皆さんそれぞれが今生きている場所にキリストが来られます。その場所で、キリストは言われます。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして・・・地の果てに至るまで、私の証人となる。」ここに神の国が来た、と証言します。ここにキリストが来ておられる、と。この世界はそのような声を否定するでしょう。がんばって領土侵犯を防ごうとします。「神の国?そのようなものはアヤシイ宗教だ」、と。「神の愛?そのようなものは理想論だ、それならなぜ戦争が起こる?なぜ宗教家たちは戦争をし、テロをしている?」、と。しかし、私も問いたい。この世界は、死んだらそれまでよ教の虜になっていませんか?私だけは正しい教、高みの見物教を鵜呑みにしていませんか?それは全部宗教です。どうぞお願いします。そういう声に騙されないでください。そういう声が響いている現場にキリストが来てくださったのです。確かに、この世界には今なお戦争がやみません。私たちと同じ信仰に立つ者がその争いのある部分において重要な役割を果たしていることも否定できません。弟子たちもイエスに問いました。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と。いつになったら、あなたが約束なさった神の国は来るのですか?いつになったら正しいことが行われるのですか?難しいのは、万人が納得する「正しさ」がどこにも見当たらないことです。ある人の正義は他の人の不正にならざるを得ない。国と国との戦争から夫婦げんかに至るまで、正義と正義のぶつかり合いです。どうしたら解決できるのでしょう。第一に言いたいのは、キリストが来て、神の国を宣言された以上、もうすでに神の国は来ています。教会を見てください。他の場所で出会ったら到底仲良しになんてならなかった者たちが食卓を囲んでいます。しかし、第二に、それはまだ完成していない。混乱の中にあります。私たちが今すべきこと、できることは、キリストの証人として生きることです。神の国そのものであるキリストの愛を証言します。そこに必ず救いがあるから。

2024年3月28日の聖句

正義は国を高める。罪は民の恥となる。(箴言14:34) イエスはそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。目的の場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。(ルカ22:39~40) 主イエス・キリストは、この夜も「いつ...