2016年6月30日木曜日

詩編第24篇 「我らの王キリストをお迎えしよう」

「栄光に輝く王が来られる」と旧約の詩人が祈り、何百年経ったのだろうか。栄光に輝く王は本当に私たちのところへ来てくださった!キリスト、この方は私たちの王。こぞってお迎えすべき方。地とそこに満ちるすべてのものを治める方、大地の基を大海の上に据えられた方。この方は私たちを罪の混沌から救い出してくださる。さあ、潔白な手と清い心でお迎えしよう。そのための手も心も主ご自身が清めてくださる。謙って進み出よう。

2016年6月26日日曜日

ルカによる福音書第5章17から26節 「イエスは罪を赦すお方」

 イエスは罪を赦すお方だ、ということは福音の基礎であり、同時にクリスチャンが学びつづけることです。当然とも思えることであり、しかししっかりと知らなければならないことです。本日の聖書箇所では、イエスというお方がある家で、人々の病気をいやしていたという状況から話が始まります。中風(体の麻痺)にかかっていた男を、ほかの男たちが運び、二階にのぼり、屋根を壊し、つり下げた。たくさんの人で押し合い圧し合いになっている家に、その男たちがなんとかしてイエスさまに治していただこうと無理をしながら入ってきた。イエスという方は、彼らの行動を見て言われたのです。「人よ、あなたの罪は赦された。」一瞬静まり返るような静けさが、そこにはあったことでしょう。あまりにも途方もない言葉をイエスは言われたのです。
CSルイスという人がこのようなことを書き残しています。「イエスは人々にむかって『あなたの罪は赦された』と言った。その人たちが罪を犯した相手の人間には一言も相談せずに、である。彼は、まるで自分がすべての罪に最大の関わりをもっているかのように、つまり、自分が最大の被害者であるかのようにふるまって、何のわだかまりも感じない。もしこの態度が意味を持つならば、イエスという男が本当に神であって、(そして今も神であって)、人が罪を犯すたびに神の法則が破られ、神の愛が傷つけられるという場合に限るのである。これに対して、もし神でもない者の口から、『あなたの罪は赦された』という言葉が出たとするならば、それはわたしに言わせてもらえば、歴史上比類ない最大のたわごとであり、最大の思い上がりであると言うほかない。」(『キリスト教の精髄』94頁より)
私たちは「イエスは罪を赦すお方」と言ったとき、このお方をもはや単なる道徳の教師としては見えなくなるのです。この方はただの嘘つきか、あるいはまことに神であられるか、どちらかしか選べない。偉大な道徳の教師などとは言えなくなるのです。

この方は私たちがまだ罪について知らない時に、私たちを呼び出し、罪を-そのどんな罪をも-赦してくださったのです。だからこそ、わたしたちは正直に自分たちの罪を、この方に告白できる。赦していただいていることを知ることができるのです。私たちの信じていることは、たいへん恐るべき、そして恵みに満ちた事実なのです。この事実こそが、私たちの日々のよりどころであり、ともし火であり、希望なのです。あなたの罪は赦された。この主イエスの言葉を信じ、今週も歩んで参りましょう。

2016年6月23日木曜日

詩編第23篇「主が私の羊飼いでいてくださるから」

2節の「青草の原」は原文ではむしろただの草地を指す。青々とした草原ではなく、荒れ地に転々と生えるわずかな茂みだ。そう考えると、これは牧歌的な歌ではない。「死の陰の谷」とも言うとおり、非常に困難な状況を彷彿とさせる。それでもなお「私には何も欠けることがない」のは、主が私の羊飼いでいてくださるから。この方が私のために食卓を整え、ご自分の家に住まわせてくださるから。死の陰の谷や苦しめる者の前でも、もう怖くない。

2016年6月19日日曜日

出エジプト記第20章13節 「殺してはならない」

「殺してはならない。」これは福音の言葉です。神が私たちに下さった良き知らせです。殺してはならない、そんなことは当たり前だと思われますか?或いは、いろいろと難しいケースを考えてみて、現実はそう一筋縄ではいかないと思われますか?具体的には例えば自殺、安楽死、中絶、戦争、死刑などが問題になります。どれもこれもそう簡単な問題ではありません。自分が当事者だったらと思うと・・・。今挙げた難しいケースの中には「殺すな」と言ったときに一番問題にある殺人のことを触れていませんでした。殺人だって、どこまで他人事と言えるかと思わざるを得ない。先日、新聞記者の裁判傍聴記録『母さんごめん、もう無理だ』という本を読みました。やりきれない思いで読みました。多くが、自分が同じ立場だったら、違う結果になっていたのだろうかと考えてしまうものでした。しかし、何か事情があったら、殺人さえも「仕方ない」のでしょうか?もしもその「事情」というのが、国家による戦争や死刑だったらどうなのでしょう?「殺してはならない」という聖書の言葉と人間との歴史は、もしかしたら、どうにかして「仕方がない事情」を捜す人間と頑として譲らない神さまの事情とのぶつかり合いだったのではないかとさえ思います。ですから、わたしは今日言いたい。「殺してはならない。」これは、福音です。神が私たちに下さった自由解放の良き知らせです。自分を殺さないためには、自殺は罪だという裁きではなく絶望への慰めや共に泣く人が必要です。安楽死を選ばざるを得ない思いに駆られる本人や家族には、老いて弱った人々を厄介者とされないように、その年月と命の尊さを変わって重んじる人が必要です。中絶は罪だと裁くのではなく、胎児の命を奪うような仕方で性交渉をしないでこそ本当の愛は育まれます。戦争への解決、和解を世界が求めています。一体どこで和解を学ぶことができるのか?教会です。自分と考え方も育ちも生活も全く異なる他人がおり、時に不快な思いをし、衝突を経験する教会の中で、私たちは和解を学びます。教会では、殺さないで済むのです。憎しみから、絶望から、刹那的な快楽から、利害関係から、解放されて自由に生きることができる道があると、キリストにあってそれは絵空事ではなく本当に可能になったのだと証言しうる共同体、それが教会です。『母さんごめん、もう無理だ』という本を読んでいたとき、Facebookに荒瀬牧彦牧師が書き込んでいた言葉が目にとまりました。沖縄で起きた元米兵死体遺棄事件の記事を引用しながら「彼女を殺させてしまったのは、何もしなかった僕であり君だ」と書かれていました。今思い出しても痛む言葉です。改革者ルターは言いました。「もしあなたが着物を与えることができるのに、裸でいる者を去らせるならば、そのようにしてあなたは彼を凍死させたのである。・・・なぜなら、あなたは彼の愛を奪い取り、幸福を奪い取ったからである。この愛と幸福によって、彼は生きながらえたかもしれないのに。」ただ殺さない、憎まない、堕胎しない、自殺しない・・・というのではなくて、キリストが本当にお求めになったのは、愛することです。どこにわたしが愛すべき隣人がいるのかと探すのではなくて、必要な人の隣人になることです。キリストが私にしてくださったようにするのです。キリストの愛を信じる者の信仰を、神はこの暴力的な世界から私たちが抜け出るための手段として用いてくださいます。

2016年6月17日金曜日

詩編第22篇23から32節 「主の恵みの証人として」

前半部と同じ詩編とは思えないほどの明るく突き抜けた歓喜の声が響いている。しかも個人的な喜びの吐露ではない。「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します。」人々を喜びへと招くのだ。しかも、「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません」とは自身の経験の言葉。神が私にしてくださった救いの御業を証言する。神が下さった賛美によって「民の末」にまで主の恵みを告げる。宣教の原点である。

2016年6月12日日曜日

ローマの信徒への手紙第12章3から8節 「自分をどう評価していますか?」

最近メガネが歪んでしまいました。歪んだメガネは物が正しく見えませんし、頭痛もします。困ったものです。ものを見る目が歪むというのは本人の自覚がなくとも実にストレスフルな状況です。皆さんは自分をどう評価していますか?そのメガネが歪んでいると、自分では気づかない内に体や心に負担をかけることもあるかもしれません。私たちは日々評価にされています。学校でも、職場でもそうです。家庭だってお互いの評価の中で動いています。自分でも自分のことを評価します。上手く自分を評価するのは案外難しいものです。詩人のまど・みちおの代表作は「ぞうさん」です。
「ぞうさん ぞうさん おはなが ながいのね
そうよ かあさんも ながいのよ。
ぞうさん ぞうさん だあれが すきなの
あのね かあさんが すきなのよ。」
鼻が長い動物はぞうしかいない。そんなぞうに向かって、ぞうさん鼻長いねぇと言えば、それはあなたの変な鼻は不良品だという響きがある。しかし、子象は大好きな母さんもお花が長いと嬉しそうに言っている。まどはそう言っていたそうです。聖書には「自分を過大に評価してはなりません」と書かれています。過大な自己評価も、過小な自己評価も、裏表のようなもので実態は同じです。自分で自分を見つめながら「長い鼻」を見つけ、自慢したり、自分を蔑んだりして、周りや自分を傷つけてしまいます。聖書は続けて言います。「むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。」では、「慎み深い評価」とは一体何でしょう?この言葉が聖書でどう使われているかを調べると、マルコ福音書5:15で「正気」という訳語で登場しています。これは悪霊にとりつかれて墓場に住み、自分を傷つけ周囲の人に恐れられていた人が主イエスと出会った物語です。この人は現代人そのものだと私は思います。彼は自分と悪霊とがもう区別も付けられませんでした。彼は自分のことが怖かったのでしょう。周囲の人も彼を恐れていました。そんな人が、イエスと出会っていやされました。キリストと出会って本当の自分を知ったのです。アメリカ合衆国長老教会の子ども用の信仰問答は第一問で「あなたは誰ですか」と問い、「わたしは神さまの子どもです」と答えます。そう、本当のあなたは神の子です!いつの間にか、そうではなくて、知らず知らずのうちに現代の悪霊の虜になっていませんか?現代の悪霊は、消費という名前かもしれませんし、便利とか、自尊心とか、成功という名前かもしれません。あなたはそういうものの所有物ではないのです。神の子です。神のものです。悪霊のものになってよいほど価値低きものではないのです。「信仰の度合い」の度合いというのは「はかり」という字です。片方の皿には私が乗っていて、もう片方に私たちはいろいろなものを入れて自分の価値を計るわけです。それが自己評価ということの意味です。私たちのもう片方の皿には、何が乗っていますか?神が各自に分け与えてくださった信仰のはかりには、キリストが乗っています。私たちの価値を計るために、神はキリストの命の重さで量ってくださいました。ただし、この価値は独りで見いだすことができません。自分が教会というキリストの体の一部になっていると知るときに気づく価値であるからです。他人という存在が不可欠なのです。自分という確固とした存在がまずあるのではなく、出会いの中で、他人との不一致の中でしか知り得ない私の価値がある。それが聖書の伝える真理なのです。

2016年6月8日水曜日

詩編第22篇1から22節「嘆きの言葉を神は与えてくださる」

これほど深い絶望の言葉があるのか。神に見捨てられた。しかも「わたしの神」と呼ぶ方に。昨日までは親しい思いを抱いていたのか。今なお愛を込めて呼ぼうとしているのか。神は応えてくださらない。「主に頼んで救ってもらうがよい」などと誰に言われずとも自分が一番願っている。しかし、助けは来ない。「主よ、あなただけは遠く離れないでください」とただ祈る。我らの嘆きがこのように深く言語化されていることは既に恵みの事実である。

2016年6月5日日曜日

ルカによる福音書18:1-8「気を落とさず、絶えず祈ろう」

主イエスは譬え話の名人と言われます。実際にいくつもの印象的な譬え話を聞かせてくださいました。今日の譬え話はその中でも特に異彩を放っています。物語に登場する不正な裁判官は、自分のところに義しいことをするようにしつこくやって来たやもめについて、「ひっきりなしにやって来て、わたしをさんざんな目にあわすにちがいない」と言いました。さんざんな目にあわすというのは、平手打ちを食らわすという意味の言葉なのだそうです。ある人は言います。これはグロテスクな話だ。あまり行儀よく訳してはいけない、と。神も畏れず人を人とも思わぬ裁判官もかなりのものです。イスラエルの裁判官は神の律法に則って厳粛に裁くものですが、この人は強者におもねり、賄賂を取り、弱者の権利など考えたこともなかったのでしょう。しかし、やもめの方もさしたるもの。それならその裁判官に平手打ちをお見舞いするほどの勢いで迫ります。これは、主が私たちに気を落とさずに、絶えず祈ることを教えるために話された譬え話です。祈りというには、随分とグロテスクな話ではないでしょうか▼19世紀末のドイツで多くの人に影響を与えたブルームハルト牧師は言いました。「救い主が語っておられるのは、悲しいやもめが生きているような時代に向かってであります。」それは、不正がまかり通り、弱い者が踏みにじられる時代です。どうしてこんなことが許されるのか、ということが私たちの周りにはたくさん起きているのではないですか。わたしは正直に思います。自分はこの叫びを共にしているのか、と。カトリックの森一弘司教は『人が壊されていく』という御著書で、どうして今の日本社会は人間としていき続けることがこんなに難しいのか、と問います。その難しさのために若い人はのたうち回って悲鳴を上げ、通り魔や親殺しなど、報道されるような事件を起こしている。森司教が指摘するのは、経済を最優先する日本社会のシステムです。教育や家庭さえも、経済的に社会が発展するための人材を送り出す場になってしまったと指摘します。この叫びは、しかし、私たち自身の叫びでもあります。今朝のこの礼拝にも、悲しみを抱えたままで来ている人がいます。「神さま、助けて!」としか言いようがありません。カトリック教会の司教の話をしましたが、教皇フランシスコは昨年9月欧州がシリア難民の問題のただ中にいたときにこんなことを言いました。「福音を具体的な形で示してほしい。欧州の小教区、修道院、巡礼地は難民を1世帯ずつ受け入れてください」、と。誠実に、悲しむ声に耳を傾け、一緒に叫びましょう、と言うのです。主よ、助けてください、と。そのために、家族としてその痛みを共に担おう、と言うのです▼しかし、祈り続けることは簡単ではありません。神を信じる者の試練とは、祈り続ける意味を見失うことだと言っても良いもしれません。神の顔が不正な裁判官の顔にしか見えなくなることがあるのです。結局、強者が栄え、不正がまかり通り、弱者は蹂躙される。経済システムが優先される。祈っても無駄。現実は変えられない。諦めて現実と信仰との折り合いを付ける。それが上品な信仰者ですか?主は言われます。あの不正な裁判官でさえ、やもめの訴えを聞いた。まして神は、昼も夜も叫び求める選ばれた者のために、当然の義しいことをなさらないはずがあろうか!共に祈りましょう。涙を流して祈り続けましょう。不正を訴えて。主よ、助けてください、と。

2016年6月2日木曜日

詩編第21篇「この王の栄光に我らもあずかる」

王の詩編の一篇である。キリストの教会に生きる我らは、ここで言われている王をキリストと考えて差し支えないであろう。王の栄光は神がお与えになった。この方は神により頼んでおられる。9節以降が印象的だ。神が王のために敵と戦われる。怒りを燃やす。黙示録などを読むと、神が、そしてキリストご自身が罪と、悪魔と戦われる。私たちをその勝利にあずからせるために。エフェソ書が言う空中に勢力を持つ者への勝利はこの王による。

詩編第82編「地の基は揺らいでいる」

「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正し...