2016年6月19日日曜日

出エジプト記第20章13節 「殺してはならない」

「殺してはならない。」これは福音の言葉です。神が私たちに下さった良き知らせです。殺してはならない、そんなことは当たり前だと思われますか?或いは、いろいろと難しいケースを考えてみて、現実はそう一筋縄ではいかないと思われますか?具体的には例えば自殺、安楽死、中絶、戦争、死刑などが問題になります。どれもこれもそう簡単な問題ではありません。自分が当事者だったらと思うと・・・。今挙げた難しいケースの中には「殺すな」と言ったときに一番問題にある殺人のことを触れていませんでした。殺人だって、どこまで他人事と言えるかと思わざるを得ない。先日、新聞記者の裁判傍聴記録『母さんごめん、もう無理だ』という本を読みました。やりきれない思いで読みました。多くが、自分が同じ立場だったら、違う結果になっていたのだろうかと考えてしまうものでした。しかし、何か事情があったら、殺人さえも「仕方ない」のでしょうか?もしもその「事情」というのが、国家による戦争や死刑だったらどうなのでしょう?「殺してはならない」という聖書の言葉と人間との歴史は、もしかしたら、どうにかして「仕方がない事情」を捜す人間と頑として譲らない神さまの事情とのぶつかり合いだったのではないかとさえ思います。ですから、わたしは今日言いたい。「殺してはならない。」これは、福音です。神が私たちに下さった自由解放の良き知らせです。自分を殺さないためには、自殺は罪だという裁きではなく絶望への慰めや共に泣く人が必要です。安楽死を選ばざるを得ない思いに駆られる本人や家族には、老いて弱った人々を厄介者とされないように、その年月と命の尊さを変わって重んじる人が必要です。中絶は罪だと裁くのではなく、胎児の命を奪うような仕方で性交渉をしないでこそ本当の愛は育まれます。戦争への解決、和解を世界が求めています。一体どこで和解を学ぶことができるのか?教会です。自分と考え方も育ちも生活も全く異なる他人がおり、時に不快な思いをし、衝突を経験する教会の中で、私たちは和解を学びます。教会では、殺さないで済むのです。憎しみから、絶望から、刹那的な快楽から、利害関係から、解放されて自由に生きることができる道があると、キリストにあってそれは絵空事ではなく本当に可能になったのだと証言しうる共同体、それが教会です。『母さんごめん、もう無理だ』という本を読んでいたとき、Facebookに荒瀬牧彦牧師が書き込んでいた言葉が目にとまりました。沖縄で起きた元米兵死体遺棄事件の記事を引用しながら「彼女を殺させてしまったのは、何もしなかった僕であり君だ」と書かれていました。今思い出しても痛む言葉です。改革者ルターは言いました。「もしあなたが着物を与えることができるのに、裸でいる者を去らせるならば、そのようにしてあなたは彼を凍死させたのである。・・・なぜなら、あなたは彼の愛を奪い取り、幸福を奪い取ったからである。この愛と幸福によって、彼は生きながらえたかもしれないのに。」ただ殺さない、憎まない、堕胎しない、自殺しない・・・というのではなくて、キリストが本当にお求めになったのは、愛することです。どこにわたしが愛すべき隣人がいるのかと探すのではなくて、必要な人の隣人になることです。キリストが私にしてくださったようにするのです。キリストの愛を信じる者の信仰を、神はこの暴力的な世界から私たちが抜け出るための手段として用いてくださいます。

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31) (イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28) 福音書記者マルコは主イエ...