2016年10月30日日曜日

マタイによる福音書4:12-17「499周年、おめでとう」

明日はマルチン・ルターの教会改革運動が始まって499周年の日です。15171031日にルターがヴィッテンベルクの城教会の扉に「95箇条の提題」と呼ばれる公開討論状を掲示したことに始まり、やがて私たちも連なるプロテスタント教会と呼ばれる教会が生まれていくことになります。ルターは神が私たちを罪から救ってくださるとはどういうことなのかを真剣に考えた人物でした。当時の教会ではお金を払って「贖宥状」を買うことで死後の煉獄での苦しみが軽減されると考えられていました。ルターはこれに反対しました。神様と私たちとの関係はお金で買うことができるようなものではない、と。子育て勉強会のおやどりの会で先日読んだ本に、このようなことが書かれていました。あるお母さんが子どもがどうしても欲しがるものを買い与えてもいいものかと質問したのです。著者の先生は、子どもの心は物では満たされないと答えていました。子どもが愛情を感じるには、時間と手をかけることだと。当然と言えば当然かもしれません。しかし、身につまされる言葉でした。そこに参加していたある人が言いました。ここに書いてあることは、詩編の「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれを献げます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」という言葉とよく似ている、と。本当にそうだと思いました。ルターがお金で神様との関係を買うことに我慢ならなかったのは、教会が神様に真心を献げる真剣さを失い、金儲けに走ってしまっていたからです。そして、信仰者たちも形ばかりで自分の生き方を変えようとせず安易な方向に流されていたのだと見抜いたのでしょう。ルターは95箇条の提題の第一条にこのように書きました。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが『悔い改めなさい・・・』と言われたとき、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」キリストを信じる者は全生涯にわたって悔い改めを続けると言います。生涯、神に真心を捧げよう、神のために時間と手間をかけて、私たちの愛情を本気で表そうと呼びかけます。悔い改めは後悔とは違います。後悔は自分のしてしまったことを、後になって失敗だったと悔やむことです。失敗に学ぶのは大切でしょう。しかし、自分のダメさ加減にうずくまっていても、希望は見えてきません。悔い改めとは一体何か。ルターはこのようなことを言います。「自分の有り様を見つめないで、今日あなたの身に起こることをよく見なさい。あなたの所に来られる方に注目しなさい。あなたが哀れな罪人であることを注目するのは、やめなさい。」この言葉に導かれて、詩人ヨッヘン・クレッパーは言います。「やめなさい、あなたの罪と弱さの中で、あなたが何者かを見つめるのは。あなたの弁護のために来られた、御子に目を留めなさい。」「御子の産着がどんなに粗末でも、たゆまず望みなさい。なおも神の子、人の子が、それに包まれているのだから。」信仰というのは、私たちがどれだけ強くそれを抱いているかが大切なのではありません。誰を信じているかが大切です。この方は私たちが暗闇の中にいても光を下さいます。私たちを罪の闇から救ってくださるのです。

2024年4月18日の聖句

シオンに住む者よ、叫び声を上げて、喜び歌え。 イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます偉大な方。(イザヤ12:6) 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。(ヨハネ1:14) 「イスラエルの聖なる方は、あなたのただ中にいます」と、聖書は言います。私たちの...