2016年10月23日日曜日

ローマの信徒への手紙8:18-25 「父なる神は人をご自分の子にしてくださる」

 一週間のお休みをいただき、ゆっくりと時間を過ごしました。休みの必要性を改めて実感しました。とは言うものの、不思議なことに、初めの数日は解放感よりも違和感のほうが、私の心に占める割合が多かったかもしれません。メールで連絡をしていたりしたほうが、どこか安心するような思いもありました。自分は休みたいのか?休みたくないのか?どっちなのか?そんな思いから始まる休暇の時でした。
 休むということは何よりも「信仰」が必要なことなのだと思わされました。先日、希望が丘教会での説教奉仕の際に、藤岡長老のお宅で夕食を共にする時がありまして、十戒の話題になりました。第四戒の安息日規定の話題になり、藤岡長老は「なぜ休まなければならないか?それは、自分が手を止めても、神が事を進めてくださることを知るためなのだ」とおっしゃり、心が弾む思いをいたしました。私たちの人生も主人公が自分であるかのように思ってしまうときがありますが、むしろ神が何よりも先に立って進んでくださっている旅なのだということを思います。そうでなければ、私たちは不安に駆られて夜も眠られないかもしれません。
 本日の聖書箇所でパウロは、神のなさることに目を向けさせようとしています。「将来、わたしたちに現わされるはずの栄光」を見せようとしています。礼拝というのは、私たちが何かを献げる以上に、神のなさる業を見るときです。その点から考えると、パウロはローマの人々に神を礼拝させようと促しているとも言えると思います。
 パウロの言う現在の苦しみというのは、被造物がいつかは滅びてしまうこと、被造物が虚無に服していることを指していますが、同時に希望を持っていることを述べています。驚くべき切り返しだと思います。虚無に服している、が同時に希望を持っている。私たちの命が私たち自身でどうにかなるのではない。それがむしろ希望なのだ!そうパウロは証ししているのであります。
 栄光とは、ヘブライ語ではありますが、重いという言葉で表現されます。これはどこか日本語と似ていて、「重要」とか「貴重」とかと同じイメージかと思います。私たちの命が、重要であればあるほど、貴重であればあるほど、それは重くなってしまいます。重いですから、この先ずっと持っていけるだろうか。どこかで落としてしまうのではないだろうか。不安になってしまうこともあるかもしれません。

 ですが、私たちのその命を持ってくださっている方、さらには神の子としてくださり、贖ってくださる方を覚えるとき、私たちは軽くなり自由になります。父なる神は私たちを子にしてくださり、永遠の命を持つ者に変えてくださいます。これが私たちの希望です。この確かな希望に信頼しつつ、神の物語に今週も生きていくことができますように。

2024年4月25日の聖句

救いは主のもの。 あなたの民の上に祝福を。(詩編3:9) イエスは手を上げて彼らを祝福された。(ルカ24:50) 主イエス・キリストは復活して40日間弟子たちと共におられ、その後、天に昇って行かれました。その時、主イエスは手を上げて弟子たちを祝福し、その恰好のままで天に上げられて...