2016年11月30日水曜日

詩編第45編「王であられるキリストへの賛美」

王に向けられたこの詩編を、我々は、まことの王イエスに向けた詩編として読み、また祈ることができる。「心に湧き出る美しい言葉、私の作る詩を、王の前で歌おう。」美しい歌をキリストに献げよう。この方を王としてお迎えしよう。栄光に輝く王はロバの子に乗って我らの所へ来られる。この方の王座は世々限りなく、その王権の笏は公正の笏(7)。この王の裁きこそ我らの救い。神が油を注がれた方(メシア)だから。キリストに、賛美。

2016年11月27日日曜日

フィリピの信徒への手紙第2章6から8節「へりくだりのお方、主イエス」

 1123日の定期中会会議を終え、さがみ野教会に帰ってくると、ぴかぴかと光る光りが目に入ってきました。「あぁ!誰かが飾りつけをしてくれたんだ!」という驚きの思いをもって見ました。一日の会議を終え、すでに暗くなっている中でしたので、なんとも言えないやさしい光が小さな喜びとして私の胸に飛び込んできたのでした。
 主イエスが来られるというのは、そのような驚きと喜びが飛び込んでくるような出来事です。暗い中に突然、パッと光るようにして来られる。主が来られることを待ち望む待降節「アドベント」。期待をして、そして悔い改めの思いをもって待ち望みたいと思います。
 しかし、聖書をよく読んでみますと、主イエスが生まれたときというのは、必ずしも人々が快く受け入れたというようには描かれていません。むしろ、皇帝が世を支配し、住民はそれに振り回されるかのようにして、弱い人同士、自らの権利を主張しあうことが描かれています。自分の泊まる宿を確保するので精一杯。ですから、主イエスは飼い葉おけに生まれるよりほかになかったのでした。
 フィリピの信徒への手紙でパウロはその主イエスお姿を、へりくだられた方として述べ伝えています。多くの喜びがフィリピ書の中にはあります。なぜそんなにパウロの心に喜びがあったのでしょうか。それはキリストのなさったことを、パウロはしっかりと見つめていたからなのでしょう。パウロは自らの腹を神とするのではなく、へりくだられたお方主イエスをしっかりと見つめていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わ」なかった(フィリピ26節)。〈しがみつく〉というニュアンスの言葉が用いられています。キリストは神の身分にしがみつかなかったのだ!自分の宿泊する宿を確保すること、あるいはフィリピの市民は自分がローマ帝国の市民権を有することにしがみついていたのかもしれません。それが自分の生活を保障するものだと思っていた。しかし、主イエスは誰よりも多くの犠牲を払い、誰よりも先に人の隣人となられ、神のもとから異国の地へと歩みを進めるお方でした。パウロもまた、このお方を主として、このお方に従っていることで、主イエスの見た景色を見ながら生きることができたのです。パウロの心に喜びがあったのは、主イエスの喜びを自分の喜びとしたのです。

 今の日本に目を留めると、現代もまた我先にと宿を確保するような時代になってきているのかもしれません。そのような時代に主イエスをお迎えし、このお方に従う道を選ぶということは、へりくだられたお方を主とし、このへりくだりを学ぶということなのでしょう。さがみ野教会の歩みもまた、そのような歩みであることを願いつつ歩んでいきたいと思います。

2016年11月24日木曜日

詩編第44編「格好を付けるのは信仰者としては敗北」

今、神はかつてのように私たちに勝利を得させてくださらない。もう我らを見放された。この信仰者はそう思い、この詩編の言葉を祈っている。それでも私たちは主との契約を空しいものとはせずに主の道を歩んできた。しかし・・・。そういう詩編だ。信仰者の一途な思いと神に寄せる望みが絶たれる絶望、その中でもなお祈るしかない。取りすがる。決して格好のいい話ではない。一縷の望みとして神を求める。それしかない。私もこうありたい。

2016年11月17日木曜日

詩編第43編「外なる光に目を向けよう」

42編から続いて一つの詩編を構成している。その長い詩編に非常に多く登場する言葉は「わたし」である。耐えがたい渇望の中、この詩編作者の目は自分に向いている。「あなたはわたしの神、わたしの砦。なぜ、わたしを見放されたのか。」もはや自分の渇きしか見えないほどに。しかし、34節に光を見る。「あなたのまことの光を遣わしてください。」自分に向いていた目が、自分の外におられる神に向くとき、そこに光があることに気付く。

2016年11月13日日曜日

ルカによる福音書第15章22から24節「神さまはあなたをさがしている!」

神さまって、どういう方だと思いますか?聖書を読むと、神さまは、私たちを捜している方です。神さまはどこか遠くにある「天国」で私たちのことを眺めているのではなくて、私たちのことを捜して、捜し回って、決して諦めない方です。あるとき、主イエス様が徴税人や罪人たちと一緒にいました。徴税人は税金を集めるのが仕事ですが、不正を働いて私腹を肥やしていたようです。「罪人」というのは具体的に何をしたのかここには書いてありませんが、きっと社会からのけ者にされていたのでしょう。その証拠に、彼らが主イエスと一緒にいるのを見て、正しい人たちはイエスに文句を言いました。「罪人たちを迎えて食事まで一緒にするなんて」と。それで、主イエス様は譬え話を始められます。ある人に二人の息子がいた。弟は父親に、自分が貰うことになっている財産の分け前がほしいと言います。それを手にするとすぐに遠い国に行って、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいました。彼が破産したとき、その地方は不景気のどん底で、豚のえさでも食べたいと思いましたが、誰も食べ物をくれません。そのどん底で彼はお父さんを思い出して、家に帰ります。すると、お父さんはまだ息子が遠くに居るのに見つけて、走り寄り、あたたかく迎えます。「この息子はいなくなっていたのに見つかった」と。それを聞いて怒ったのはお兄さんで、自分は父親のもとでずっと真面目に生きてきたのに、あいつが戻ってくると喜んで迎えてやるなんて。お兄さんは弟のことも父親のことも拒んで、家に入ろうともしない。父親は出てきてなだめます。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前だ」と言いました。この二人の息子がいるお父さんは、息子たちのことをずっと捜していました。下の息子がいなくなった日から、ずっと家の外で遠くを見ていたのでしょう。だから、帰ってきたとき、まだ遠く離れていたのに駈け寄ることができました。上の息子が怒って家に入らないときも、外に迎えに来ます。「喜ぶのは当たり前だ」と言いながら、お前も一緒に喜ぼうと説得します。優しいお父さんです。このお父さんの優しさ、お父さんの愛の「当たり前」、それが、息子たちを捜し続けるお父さんの姿になって現れているのだと思います。主イエス様がこの話をしたとき、父親の姿に託して神さまのことを話してくださいました。神さまは、良い子になれない私のことも、自分は正しいって自信を持ってしまって優しくなれない私のことも、愛してくださいます。愛することが当たり前だと言ってくださいます。神さまは優しい方です。考えられないほどに優しい方です。教会は、この神さまの愛の当たり前をみんなで喜ぶ場所です。弟息子が家出をしたとき、きっと、お父さんのところを離れれば、自分は本当に自分らしく生きられると思い込んでいたのではないかと私は思います。確かに、金がある内は楽しかったでしょう。でも、不景気になった時に分かったことは、本当は独りぼっちだったということです。お兄さんも、体は家にいましたが、心は弟と一緒で、家出していました。やっぱり、独りぼっちでした。神さまの愛の「当たり前」に、二人とも気付いていなかったからです。でも、神さまはそんな息子たちを愛するのを当たり前だといって捜しています。失敗しても、傷つけても、神さまは私たちを愛することを当たり前と言ってくださっています。

2016年11月10日木曜日

詩編第42編「渇望」

神を渇望する渇いた魂。神の御前に出たい、いつ御顔を仰げるのか、昼も夜も涙を流している。絶え間なく言われているのだ、「お前の神はどこにいる」と。イメージ豊かな詩編だ。しかし、そのイメージが絶望の深さを色濃く映し出す。私も神を求める。昼も夜も。しかし、呻きつつここまで激しく求めているのだろうか。この詩編の渇望を最も深くご存知だったのは主イエスである。十字架の上で主は言われた。「渇く。」主の渇きが私をいやす。

2016年11月6日日曜日

ルカによる福音書第19章1から10節「今日、救いがこの家を訪れた」

「今日、救いがこの家を訪れた。」主イエスはザアカイの家でそうおっしゃいました。救いが来たのです。面白い表現だと思います。元の言葉を直訳すると、「なった」とも言えます。今日、この家で救いがなった、起こった、と言われます。現実のものになったということでしょう。まるで、クリスマスに救い主が来てくださって、私たちのための神の救いが起きたのとそっくりです。一ヶ月もするとアドベントを迎え、クリスマスが近づきます。普段は教会に来ていない方にも足を運びやすく思って頂けると嬉しいです。先日の講演会にも大勢の人が来てくださいました。講師を務めてくださった井田さんはご自分が出会った主イエスの話をされました。この方に一人でも多くの人に出会っていただきたいです。ザアカイという男がいました。大都市エリコの税務署長です。当時のこの職の人にはよくありましたが、相当私腹を肥やしていました。そんな男が、エリコにイエスが来たという話を耳にして通りに出てみますが、人だかりで見えやしない。そこでザアカイは木に登って見物しようとした。どうして、そんなことをしようとしたのだろうかと思います。聖書には理由が書いてありません。見てみたかったのでしょうが、正面から会いに行くことはしたくはなかったようです。私は小さなころからこのザアカイの物語を聞いてきて、木に登るおじさんが人々に笑われているイメージがありました。しかし、昨日散歩をしながら木の下を通って、もしかしたらそうでもなかったかもしれないと思いました。通りに出ていた人は皆イエスを見たくてそこに来ています。皆道路を見ている。背後にあっただろう木に登っている人がいるなんて、注目する者はいなかったのではないだろうか。もしかしたら、ザアカイは、誰にも、イエスにも気づかれないでそっと見物したかっただけなのかもしれません。教会ってどういう所なのか気になるけど、日曜日に行くのはどうも行きにくいし、他の日でも牧師さんでも出てきちゃったらどうも気まずい・・・なんて気がしている人そっくりです。そうすると、ザアカイが登ったいちじく桑の木は現代で言えばホームページか何かかもしれません。しかし、主イエスはそんなザアカイを見逃すようなことがありませんでした。ザアカイが木に登っている。その場所に来ると、上を見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家にとまりたい。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んで主イエスを迎えました。「喜んで」と書いてあります。ザアカイは喜んだのです。この小さな言葉は、もしかしたらザアカイ自身も気づいていなかったザアカイの心を言い表しています。ザアカイは誰にも、イエスにも気づかれずに木の上から眺めたいと思っていました。しかし、そんな自分を見つけられたとき、ザアカイは喜んだ。自分でも気づいていなかったけれど、本当はイエスと出会いたかったのです。ザアカイ自身は自分のそういう心を知らなかったけれど、イエスはそのことをよくご存知でした。なぜなら、イエスは、「失われたものを捜して救うために来た(10)」からです。ザアカイは失われています。職業上の立場を利用して私腹を肥やしていました。権力を笠に着るから可能なことです。それは失われた者の生き方です。別の言い方をすれば、自分らしくない。しかし、イエスは本当のザアカイらしさをご存知です。私たちを捜して救うために来られたからです。

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...