2016年11月13日日曜日

ルカによる福音書第15章22から24節「神さまはあなたをさがしている!」

神さまって、どういう方だと思いますか?聖書を読むと、神さまは、私たちを捜している方です。神さまはどこか遠くにある「天国」で私たちのことを眺めているのではなくて、私たちのことを捜して、捜し回って、決して諦めない方です。あるとき、主イエス様が徴税人や罪人たちと一緒にいました。徴税人は税金を集めるのが仕事ですが、不正を働いて私腹を肥やしていたようです。「罪人」というのは具体的に何をしたのかここには書いてありませんが、きっと社会からのけ者にされていたのでしょう。その証拠に、彼らが主イエスと一緒にいるのを見て、正しい人たちはイエスに文句を言いました。「罪人たちを迎えて食事まで一緒にするなんて」と。それで、主イエス様は譬え話を始められます。ある人に二人の息子がいた。弟は父親に、自分が貰うことになっている財産の分け前がほしいと言います。それを手にするとすぐに遠い国に行って、放蕩の限りを尽くして財産を無駄遣いしてしまいました。彼が破産したとき、その地方は不景気のどん底で、豚のえさでも食べたいと思いましたが、誰も食べ物をくれません。そのどん底で彼はお父さんを思い出して、家に帰ります。すると、お父さんはまだ息子が遠くに居るのに見つけて、走り寄り、あたたかく迎えます。「この息子はいなくなっていたのに見つかった」と。それを聞いて怒ったのはお兄さんで、自分は父親のもとでずっと真面目に生きてきたのに、あいつが戻ってくると喜んで迎えてやるなんて。お兄さんは弟のことも父親のことも拒んで、家に入ろうともしない。父親は出てきてなだめます。「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った、いなくなっていたのに見つかった。喜ぶのは当たり前だ」と言いました。この二人の息子がいるお父さんは、息子たちのことをずっと捜していました。下の息子がいなくなった日から、ずっと家の外で遠くを見ていたのでしょう。だから、帰ってきたとき、まだ遠く離れていたのに駈け寄ることができました。上の息子が怒って家に入らないときも、外に迎えに来ます。「喜ぶのは当たり前だ」と言いながら、お前も一緒に喜ぼうと説得します。優しいお父さんです。このお父さんの優しさ、お父さんの愛の「当たり前」、それが、息子たちを捜し続けるお父さんの姿になって現れているのだと思います。主イエス様がこの話をしたとき、父親の姿に託して神さまのことを話してくださいました。神さまは、良い子になれない私のことも、自分は正しいって自信を持ってしまって優しくなれない私のことも、愛してくださいます。愛することが当たり前だと言ってくださいます。神さまは優しい方です。考えられないほどに優しい方です。教会は、この神さまの愛の当たり前をみんなで喜ぶ場所です。弟息子が家出をしたとき、きっと、お父さんのところを離れれば、自分は本当に自分らしく生きられると思い込んでいたのではないかと私は思います。確かに、金がある内は楽しかったでしょう。でも、不景気になった時に分かったことは、本当は独りぼっちだったということです。お兄さんも、体は家にいましたが、心は弟と一緒で、家出していました。やっぱり、独りぼっちでした。神さまの愛の「当たり前」に、二人とも気付いていなかったからです。でも、神さまはそんな息子たちを愛するのを当たり前だといって捜しています。失敗しても、傷つけても、神さまは私たちを愛することを当たり前と言ってくださっています。

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...