2016年11月6日日曜日

ルカによる福音書第19章1から10節「今日、救いがこの家を訪れた」

「今日、救いがこの家を訪れた。」主イエスはザアカイの家でそうおっしゃいました。救いが来たのです。面白い表現だと思います。元の言葉を直訳すると、「なった」とも言えます。今日、この家で救いがなった、起こった、と言われます。現実のものになったということでしょう。まるで、クリスマスに救い主が来てくださって、私たちのための神の救いが起きたのとそっくりです。一ヶ月もするとアドベントを迎え、クリスマスが近づきます。普段は教会に来ていない方にも足を運びやすく思って頂けると嬉しいです。先日の講演会にも大勢の人が来てくださいました。講師を務めてくださった井田さんはご自分が出会った主イエスの話をされました。この方に一人でも多くの人に出会っていただきたいです。ザアカイという男がいました。大都市エリコの税務署長です。当時のこの職の人にはよくありましたが、相当私腹を肥やしていました。そんな男が、エリコにイエスが来たという話を耳にして通りに出てみますが、人だかりで見えやしない。そこでザアカイは木に登って見物しようとした。どうして、そんなことをしようとしたのだろうかと思います。聖書には理由が書いてありません。見てみたかったのでしょうが、正面から会いに行くことはしたくはなかったようです。私は小さなころからこのザアカイの物語を聞いてきて、木に登るおじさんが人々に笑われているイメージがありました。しかし、昨日散歩をしながら木の下を通って、もしかしたらそうでもなかったかもしれないと思いました。通りに出ていた人は皆イエスを見たくてそこに来ています。皆道路を見ている。背後にあっただろう木に登っている人がいるなんて、注目する者はいなかったのではないだろうか。もしかしたら、ザアカイは、誰にも、イエスにも気づかれないでそっと見物したかっただけなのかもしれません。教会ってどういう所なのか気になるけど、日曜日に行くのはどうも行きにくいし、他の日でも牧師さんでも出てきちゃったらどうも気まずい・・・なんて気がしている人そっくりです。そうすると、ザアカイが登ったいちじく桑の木は現代で言えばホームページか何かかもしれません。しかし、主イエスはそんなザアカイを見逃すようなことがありませんでした。ザアカイが木に登っている。その場所に来ると、上を見上げて言われます。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家にとまりたい。」ザアカイは急いで降りてきて、喜んで主イエスを迎えました。「喜んで」と書いてあります。ザアカイは喜んだのです。この小さな言葉は、もしかしたらザアカイ自身も気づいていなかったザアカイの心を言い表しています。ザアカイは誰にも、イエスにも気づかれずに木の上から眺めたいと思っていました。しかし、そんな自分を見つけられたとき、ザアカイは喜んだ。自分でも気づいていなかったけれど、本当はイエスと出会いたかったのです。ザアカイ自身は自分のそういう心を知らなかったけれど、イエスはそのことをよくご存知でした。なぜなら、イエスは、「失われたものを捜して救うために来た(10)」からです。ザアカイは失われています。職業上の立場を利用して私腹を肥やしていました。権力を笠に着るから可能なことです。それは失われた者の生き方です。別の言い方をすれば、自分らしくない。しかし、イエスは本当のザアカイらしさをご存知です。私たちを捜して救うために来られたからです。

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリス...