2016年11月27日日曜日

フィリピの信徒への手紙第2章6から8節「へりくだりのお方、主イエス」

 1123日の定期中会会議を終え、さがみ野教会に帰ってくると、ぴかぴかと光る光りが目に入ってきました。「あぁ!誰かが飾りつけをしてくれたんだ!」という驚きの思いをもって見ました。一日の会議を終え、すでに暗くなっている中でしたので、なんとも言えないやさしい光が小さな喜びとして私の胸に飛び込んできたのでした。
 主イエスが来られるというのは、そのような驚きと喜びが飛び込んでくるような出来事です。暗い中に突然、パッと光るようにして来られる。主が来られることを待ち望む待降節「アドベント」。期待をして、そして悔い改めの思いをもって待ち望みたいと思います。
 しかし、聖書をよく読んでみますと、主イエスが生まれたときというのは、必ずしも人々が快く受け入れたというようには描かれていません。むしろ、皇帝が世を支配し、住民はそれに振り回されるかのようにして、弱い人同士、自らの権利を主張しあうことが描かれています。自分の泊まる宿を確保するので精一杯。ですから、主イエスは飼い葉おけに生まれるよりほかになかったのでした。
 フィリピの信徒への手紙でパウロはその主イエスお姿を、へりくだられた方として述べ伝えています。多くの喜びがフィリピ書の中にはあります。なぜそんなにパウロの心に喜びがあったのでしょうか。それはキリストのなさったことを、パウロはしっかりと見つめていたからなのでしょう。パウロは自らの腹を神とするのではなく、へりくだられたお方主イエスをしっかりと見つめていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わ」なかった(フィリピ26節)。〈しがみつく〉というニュアンスの言葉が用いられています。キリストは神の身分にしがみつかなかったのだ!自分の宿泊する宿を確保すること、あるいはフィリピの市民は自分がローマ帝国の市民権を有することにしがみついていたのかもしれません。それが自分の生活を保障するものだと思っていた。しかし、主イエスは誰よりも多くの犠牲を払い、誰よりも先に人の隣人となられ、神のもとから異国の地へと歩みを進めるお方でした。パウロもまた、このお方を主として、このお方に従っていることで、主イエスの見た景色を見ながら生きることができたのです。パウロの心に喜びがあったのは、主イエスの喜びを自分の喜びとしたのです。

 今の日本に目を留めると、現代もまた我先にと宿を確保するような時代になってきているのかもしれません。そのような時代に主イエスをお迎えし、このお方に従う道を選ぶということは、へりくだられたお方を主とし、このへりくだりを学ぶということなのでしょう。さがみ野教会の歩みもまた、そのような歩みであることを願いつつ歩んでいきたいと思います。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...