今、神はかつてのように私たちに勝利を得させてくださらない。もう我らを見放された。この信仰者はそう思い、この詩編の言葉を祈っている。それでも私たちは主との契約を空しいものとはせずに主の道を歩んできた。しかし・・・。そういう詩編だ。信仰者の一途な思いと神に寄せる望みが絶たれる絶望、その中でもなお祈るしかない。取りすがる。決して格好のいい話ではない。一縷の望みとして神を求める。それしかない。私もこうありたい。
2024年3月29日の聖句
ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...
-
主イエス・キリストが、安息日になるといつものように会堂に入り、聖書を朗読なさいます。これだけでもう慰め深い言葉です。私たちは今主がそうなさったのと同じように、私たちの安息日である主の日、日曜日に教会堂に集まって礼拝を献げています。今日、ここに来られな...
-
今日の通読箇所:ルカによる福音書7:24~50、ヨシュア記1 8、詩編124~125 ヨシュア記18; 「あなたがたの先祖の神、主が与えられた地に入り、所有するのを いつまでためらっているのか(3節)」。すでにイスラエルの五つ の部族には所有地が割り当てられましたが、 まだ...
-
今日の通読箇所:テモテへの手紙二2、イザヤ書60~62 イザヤ書60~62; 主イエス・キリストが安息日に会堂に入り、そこで聖書を朗読し、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した(ルカ4:21)」と宣言されたことがあります。その時に主イエスが朗読された...