2016年12月29日木曜日

詩編第49編「あなたを救うのは、神か富か?」

神の祝福とは一体何なのかを問われる詩編だ。時折この世の成功に類する出来事を得たときに神の祝福を口にする。それはそうかも知れないが、「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず」と肝に銘じたい。むしろ、「財宝を頼みとし、富の力を頼る者を」恐れるのを止めようと言う。魂を贖う値は富よりも遙かに高いからだ。「人間は栄華のうちにとどまることはできない。」ただ神だけが私を救ってくださる。生活の中の本音として信じよう。

2016年12月25日日曜日

ヨハネによる福音書第16章33節 「クリスマス、それは勝利の日!」

今日はクリスマスです。教会にはクリスマス、イースター、ペンテコステと三つの大きな祝いがありますが、クリスマスが一番新しいようです。いつクリスマスを祝うかと言ったときに、一説によると冬至の時期を選んだ、と聞きます。一番夜が長い、闇が深まった時期。そこから日が昇り、少しずつ昼が長くなっていく。それがクリスマスの出来事に重ね合わせられたと言うのです。クリスマスの意味をよく表した逸話だと思います。この一年はどういう年でしたか?闇が深まり、心配や不安の中、苦しみの中を歩んでこられた方も少なくはないと思います。そういうときにはいろいろな趣味で発散することも大切です。私の最近はじめた新しい趣味はスパイスカレーです。いい気分転換になります。しかし、気分転換をしても、根本的な解決にはなりません。では、どうしたらいいのか?「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と主イエスは言われます。私たちが平和(以前の口語訳では「平安」と訳していました。)を得るために、キリストが語りかけていてくださいます。キリストの語りかけこそが、私たちを闇の中から救い出すのです。キリストは平和、即ち平安を与えてくださいます。私たちと神との間に。それは何よりも大いなる安心、平安、救いです。しかし、新共同訳聖書がこの単語を平安ではなく「平和」と訳したのは、個人的な心の中の出来事と受けとめられないように、ということなのだと思います。「あなたがたには世で苦難がある」と主イエスは言われました。その言葉の通り、この世界は今苦難に覆われています。この一年は国際秩序が大きく変わっていく年でもありました。今年出版された本で、そういう一年を象徴するタイトルであったのは『中東から世界が崩れる』という高橋和夫さんの本です。2016年はサウジアラビアとイランの国交断絶から始まりました。シリアの内戦は収まりません。たくさんの難民が産み出され続けています。欧州のいろいろな国の選挙結果で排外的な政策を掲げる政党が勝ったことや、英国のEU離脱を巡る国民投票、米国大統領の選挙などの一つの原因になっているのでしょう。もちろん、他にもたくさん原因はあるのでしょうが。中東から、これまでの世界秩序が崩壊してきています。まことに厳しい現実です。一体、どこに行ったら平和が見つかるのでしょう。「平和」という言葉を聖書の中で探してみて、このような主イエスの言葉と出会いました。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。「世が与える平和」と主イエスは言われます。今の世界は良い言葉を求めていると思います。よく多様性とか寛容という言葉を聞きます。違った者を受け入れよう、と。それ自体はすばらしいことです。しかし、反面、多様性や寛容に社会が疲れた結果、それと正反対の主張をする人々が選挙で勝っているのかも知れません。多様性も寛容も良いけれど、結局俺たちの生活をどう保証するんだ、と。キリストが与えてくださる平和とは何なのか?ここで、再び「平安」という言葉の深い意味に気づきます。神との平和、平安なしには人と人との平和は成り立たないのです。私は既に世に勝っているというキリストの勝利は十字架にかけられるという勝利でした。そうして神と私たちとを平和にしてくださいました。クリスマスは途方に暮れるしかない私たちの世界に神ご自身が飛び込んできてくださった日です。目の前にいる一人の人を、真剣に、キリストがこの私にそうしてくださったように愛したい。

2016年12月22日木曜日

詩編第48編「神を信じる者の美しさ」

勝利を祝う詩編なのであろう。「王たちはときを定め、共に進んで来た。」しかし、「彼らは見て、ひるみ、恐怖に陥って逃げ去った」。何を見たのか。神がこの都を固く立ててくださっていることであろう。だから、「わたしたちの神の都のある聖なる山は、高く美しく、全地の喜び」とも言う。イスラエルは強国ではない。むしろ弱者だ。しかし、神に依り頼むものは美しい。この美しさがもたらす勝利は十字架がもたらす勝利に通じる逆説なのだ。

2016年12月18日日曜日

イザヤ書第11章1から5節 「聖霊は共に生きる生活を与える」

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と詩編の記者は歌いました。共に生きるということ、それはキリスト者に与えられている特権です。2000年前に飼い葉おけに寝ている乳飲み子を、マリア、ヨセフ、博士や羊飼いが囲みました。そのように私たちもまた主イエスを囲み、主イエスが来られるのを待ち望んでいます。彼らはこの後、主イエスがどのような生涯を送られるか、想像もできなかったことではないでしょうか。私たちもまた、教会の歩みがどのようなものになるかは想像できません。しかし、取るに足らないと世から思われるような場所で、主イエスと出会うことができるというのは、私たちもまた信仰によらずして起こり得ないことです。
 今年は第4アドベントを第4アドベントとして過ごすことができています。悔い改めの思いを込めてアドベントを過ごします。12月のこのとき、さまざまな準備で忙しくしたり、寒いですから体調を崩されることもあるかもしれません。それほど余裕なく、一日一日を過ごしていると、だんだん寂しくなったり、悲しくなったりします。そのような時でも、主イエスは貧しく弱い者の声を、声にならない声を聞き逃されないお方です。
 本日の聖書箇所では、「救い主は目に見えるところ、耳にするところによって裁かれないお方だ」ということが言われていました。このことに私たちは本当に驚きます。私たちは仕事で、家事で、育児で、人から批判され、あるいは簡単に批判してしまいます。しかし、心の奥底をご存知のお方は、目にするところで私たちを評価されるのではない。私たちはどんなところに置かれ、どんなに自分の見栄えが良くない状態だとしても、それだから主イエスに見捨てられるような見方で見られているのではないのです。目にするところで評価されないということは大きな希望です。
 ドイツの神学者であり牧師であるボンヘッファーは『共に生きる生活』という本の中で、「わたしは、イエス・キリストがわたしに対して、わたしのためにして下さったことを通して、他者に対して兄弟である。他者は、イエス・キリストが彼のために、彼に対してして下さったことを通して、わたしに対して兄弟となった。(中略)ひとりの人がキリスト者として自分自身の中に持っているもの、その内面性や敬虔性が、わたしたちの交わりを基礎づけることができるものではなく、キリストから来るものが、わたしたちの兄弟としての関係にとって決定的なものである。」と言いました。
 私たちは何も持っていないくて、もうどうしようもないという状態でも、しかしそこで「わたしの愛する子」という主イエスの声は響いています。この声のみに聞き従うことのできる歩みが、私たちの与えられている歩みです。

2016年12月15日木曜日

詩編第47編「主こそ王」

「神は、全地の王。ほめ歌をうたって、告げ知らせよ。」神が我らの王でいてくださることを喜ぶ詩編。この王国は少し不思議だ。神はすべての民の王だが、「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる。」通常、国民には親が国民であるか、その国の中で生まれるかなどの要件がある。しかし、この王国は自由な者らが集められる。誰でも神の民として招かれている。何という喜び。喜びの歌をうたって神の国の民として生きよう。

詩編第46編「地が姿を変えるときにも」

「わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」地が姿を変える、などのこのような言葉でしか表現しようのない出来事が時に起こる。その有様に神を見失いはしないか。そのとき、神は言われる。「力を捨てよ、知れ、わたしは神。」それを知れば十分だと言われるのだ。それだけで、恐れずに済むのだ。苦難の日にこそ、静まって神を知ろう。

2016年12月4日日曜日

ルカによる福音書第1章26から38節「神の『おめでとう』は揺るがない」

クリスマスにはいろいろな讃美歌が溢れています。クリスマスの出来事を歌う讃美歌の中でも特に美しいものの一つは、アヴェ・マリアでしょう。「おめでとう、マリア、恵まれた方。神があなたと共におられます。」そう歌い始めます。今朝の聖書に登場する天使の言葉です。私たちプロテスタント教会ではマリアに祈ったり、果てにはマリアを神格化したりするようなことはしません。しかし、彼女はすばらしい信仰者です。ナザレという田舎に住んでいた、平凡な少女でした。天使が平凡な一人の女のところに来て告げた祝福の挨拶は、時代も場所も越えて、私たちにも向けられた祝福であると信じます。私たちも同じように祝福されています。「神があなたと共におられます」と私たちにも宣言されています。マリアの胎に宿ったキリストが、このクリスマスに、私たちにも出会おうとされているからです。皆さんは、この一週間をどのような思いで過ごしてこられたでしょうか。「おめでとう」という言葉からは遠い現実の中に生きてきた人もきっといることでしょう。わたしは、この一週間、家族のために心を砕く人と会ってきました。ある人は家族の死を迎えるための備えを少しずつ始め、またある人は病気に倒れた家族に付き添って手術室の前にいました。そういう時にも、マリアに向けられた挨拶は、なお意味を持つのでしょうか?天使はマリアに「恵まれた方」と言いましたが、この字は、「もうすでに神の恵みを受けて、今生きている人」というニュアンスの表現になっています。私たちには見えないけれど、私たちには「どうして、そのようなことがありえましょう」としか言いようがなくても、神の恵みはもうあなたに与えられていると天使は言うのです。どうして、そのようなことが言えるのでしょう。神さまは私たちの現実を無視なさっているのでしょうか。「おめでとう」という言葉は、直訳すると「喜べ」という表現です。喜びうるしっかりとした根拠も無く「喜べ」なんて命令されるとしたら、極めて非人間的な仕打ちです。世の中にはそういう命令が溢れているように思います。大して面白くもないバラエティに笑って時間を過ごした後の空しさといったらどうでしょう。でも、そうでもしないと晴らせない憂さに囲まれて私たちは生きています。マリアが生きた時代のユダヤは、喜びの水も涸れ果てたというべきでした。ユダヤはローマ帝国の属国でしたし、貧しかったのです。悲しむ者、苦しむ者に喜びがあるというならば、その根拠をハッキリさせなければなりません。天使はマリアに言います。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」神があなたと共におられる。だから喜んでくれ、と言うのです。クリスマスの讃美歌の中には「マグニフィカート」というものもあります。マリアの讃歌とも呼ばれます。マルティン・ルターがこの名の小さな書物を書いています。私たちは誰でも富や名誉や力や良い生活を求める。誰も貧乏や恥辱や苦難、悲惨なんて求めない。悲惨の中に喘ぐ者を求めるのは、ただ神だけだ。神は私たちに死を負わせ、計り知ることのできない悩みと困窮に添えて、十字架のキリストを下さった。ルターはそう言います。そうです。天使の「おめでとう」は十字架のキリストを指さしているのです。私たちの悲しみや苦しみにも共におられるキリストを。私たちの悲しみを生み出す罪からあなたを救うキリストが共にいて下さる。これがクリスマスの福音です。

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリス...