2016年12月18日日曜日

イザヤ書第11章1から5節 「聖霊は共に生きる生活を与える」

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」と詩編の記者は歌いました。共に生きるということ、それはキリスト者に与えられている特権です。2000年前に飼い葉おけに寝ている乳飲み子を、マリア、ヨセフ、博士や羊飼いが囲みました。そのように私たちもまた主イエスを囲み、主イエスが来られるのを待ち望んでいます。彼らはこの後、主イエスがどのような生涯を送られるか、想像もできなかったことではないでしょうか。私たちもまた、教会の歩みがどのようなものになるかは想像できません。しかし、取るに足らないと世から思われるような場所で、主イエスと出会うことができるというのは、私たちもまた信仰によらずして起こり得ないことです。
 今年は第4アドベントを第4アドベントとして過ごすことができています。悔い改めの思いを込めてアドベントを過ごします。12月のこのとき、さまざまな準備で忙しくしたり、寒いですから体調を崩されることもあるかもしれません。それほど余裕なく、一日一日を過ごしていると、だんだん寂しくなったり、悲しくなったりします。そのような時でも、主イエスは貧しく弱い者の声を、声にならない声を聞き逃されないお方です。
 本日の聖書箇所では、「救い主は目に見えるところ、耳にするところによって裁かれないお方だ」ということが言われていました。このことに私たちは本当に驚きます。私たちは仕事で、家事で、育児で、人から批判され、あるいは簡単に批判してしまいます。しかし、心の奥底をご存知のお方は、目にするところで私たちを評価されるのではない。私たちはどんなところに置かれ、どんなに自分の見栄えが良くない状態だとしても、それだから主イエスに見捨てられるような見方で見られているのではないのです。目にするところで評価されないということは大きな希望です。
 ドイツの神学者であり牧師であるボンヘッファーは『共に生きる生活』という本の中で、「わたしは、イエス・キリストがわたしに対して、わたしのためにして下さったことを通して、他者に対して兄弟である。他者は、イエス・キリストが彼のために、彼に対してして下さったことを通して、わたしに対して兄弟となった。(中略)ひとりの人がキリスト者として自分自身の中に持っているもの、その内面性や敬虔性が、わたしたちの交わりを基礎づけることができるものではなく、キリストから来るものが、わたしたちの兄弟としての関係にとって決定的なものである。」と言いました。
 私たちは何も持っていないくて、もうどうしようもないという状態でも、しかしそこで「わたしの愛する子」という主イエスの声は響いています。この声のみに聞き従うことのできる歩みが、私たちの与えられている歩みです。

2024年4月26日の聖句

神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべてである。(コヘレト12:13) (イエスの言葉)「第一の戒めは、これである。『聞け、イスラエルよ。私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の戒めは...