2017年1月29日日曜日

ルカによる福音書第19章11から27節「今、小さな事に忠実に」

今日の聖書の話を聞いて、どう思われるでしょうか。初めてこの話を読んだ人には少し衝撃的な物語であったかも知れません。聖書に多少とも慣れ親しんでいる人は、「あれ」と思われたかも知れません。というのも、マタイによる福音書によく似た話があるからです。しかも、よく似ているけれど、細部がちょっと違いますし、気になる違いです。ある人が不在になるので僕たちがなにがしかを預かって、その後商売をする。そのもうけを主人に報告して、ある者はほめられ、ある者は裁かれる。そういう基本的なことは一緒ですが、まず、預かる金額が違います。マタイでは5タラントン、2タラントン、1タラントン。ルカは10人に10ムナ。恐らく1ムナずつでしょう。1タラントンは、約60ムナです。それに、マタイにはない物語もくっついています。この人は不人気だったようで、王になるというのに住民に反対された。そして、最後にはこの反対者を殺すという話があります。マタイはそういう事は言いませんでした。実は、この後半の話は、2000年前に直接主イエスの口からこの話を聞いた人たちにとっても、ビックリする話であったのではないかと思うのです。というのも、本当にこれとよく似た話が当時あったからです。あの有名なヘロデ大王の息子が王位を継ぐとき、当時の地中海世界を支配していたローマ帝国の認証を受けにいき、それに対してユダヤ人が反対の使者を出した、という事件がありました。「イエスさま、あの話をしているの?」と思ったことでしょう。しかし、ユダヤで起きた出来事は似ているけれど、やっぱり違います。主イエスの譬えに登場する王は、旅立つときに、家来たちにムナを託していきます。主イエスは史実を思わせる話をしながら、ご自分とご自分を信じるキリスト者達の話をしているのでしょう。当時の人が「あのヘロデ家の話?」と思ったり、私たちが「マタイとちょっと違うゾ」と思ったり、「この残酷な話って何?」といぶかったりするときに既にそこでイエスの話の中に引き込まれています。キリストの言葉を聞く私たちもこの話の登場人物の独りになってしまっているのです。なぜなら、ここで王が家来に託した「ムナ」とは、古代からの教会の考えによれば、キリストの言葉そのものを意味しているからです。主イエス・キリストは、キリストの言葉を聞く私たちに、ご自分の言葉というムナ、ご自分の言葉という宝を預けてくださっているのです。「わたしが帰ってくるまで、これで商売をしなさい」と。主イエスの言葉に生きることで、もうけを得てきなさいと私たちに神さまの言葉という宝を預けてくださっているのです。ところが、この王、即ちキリストは、この世界では嫌われている王です。考えてみれば、残されて商売をする家来たちはこの地で嫌われた主人をもって商売しなければなりません。ある人はムナを死蔵しましたが、あの人の家来だと言って商売するのは怖いことだったのかも知れません。この世で神の言葉に従って生きるとは、そういうことなのです。あの鼻つまみ者、ヤクザなザアカイと一緒に食事を食べてつきあうキリストの後に付いていくのですから。でも、神に託されたタラントに生きるとき、必ずもうけが生まれます。神からの報いがあります。神の言葉に生きるほどに、喜びに喜びが増し加わります。これはもう確実です。このキリストの約束を信じて、今私たちは小さな事に忠実に生きようではありませんか。   

2017年1月26日木曜日

詩編第53編「善を行う者はいない」


「神は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。誰も彼も背き去った。皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない。」何と厳しい言葉だろう。神が天から見渡しても、一人も善を行う者はいないのだ。神の前に汚れているのは、この私なのだ。だから、私から救いが始まることはない。決してない。神からしか始まらない。私たちが喜び祝うことができるように、主よ、救ってください。

2017年1月22日日曜日

ローマの信徒への手紙8:26〜28「どんな時でも、神は道を備えておられる」

私たちは礼拝をしています。改めて言う必要もないことかもしれません。しかし、礼拝とはなんなのか。それを問われることもありますし、いったん考えますと難しいことにも気が付きます。礼拝について書かれている本も何冊もありますから、ここには一言などでは言い表せないほど豊かな恵みがあるということです。豊かな礼拝に招かれている私たちは今、その礼拝の一部である「祈り」ということに注目してみたいと思います。
 本日のパウロの言葉。「わたしたちはどう祈るべきかを知りません」と言う言葉は、すこし不思議です。祈りを大切にし、誰よりも祈っていたことと思います。しかし、パウロはどう祈るべきかを知らないと言うのです。パウロは、私たちがすべき祈りはいかなるものなのか、それを問うているように思います。
 主イエスは、奥まった場所で祈りなさい、とも教えられたことがあります(マタイ6章)。誰にも聞かれないような場所でも、父なる神は私たちの祈りを待っておられる。祈りとは、神秘だと思います。祈りが深まるというのは、言葉の巧みさでもなければ、回数でもない。信頼が増すかどうかに関わってくる。それは聖霊の働きにとてもよく似ています。
 私たちが神を「父よ」「お父ちゃん」と呼ぶことができること、それは聖霊の働きによるものです。神の子どもとされることを、私たちは願っております。それは目には見えない希望です。この目には見えない希望を聖霊ご自身が、私たちよりも先に願っておられます。「執り成す」とパウロは言いましたが、この言葉のイメージはくっついて動かすイメージです。私は子どもが服を引っ張って「あっち」「あっち」と願うようなイメージをします。聖霊は私たちの内に働いて、神のご計画を願います。ですから、聖霊が私たちの内で祈りを始めるということは、私たちが求めていることよりも先に、神がどのような計画を持っているかに関わってくるのです。

 ここで改めて振り返りますと、私たちは自分の生活の保持のために心を多く使ってしまうことがあります。疲れます。不安に苛まれます。ですが、私たちが礼拝に招かれているということ、神を父と呼び祈りをするということ。それは、確かに私たちの願ったことではありますが、生活の安定のためではなかったことが分かります。言い換えるならば、この方にご計画があり、そのご計画がなされるために、私たちが招かれ命が守られているのであります。ですから、私たちの祈りは、「わたしを守ってください」と祈りつつ、同時に「あなたは何をなさるのでしょうか?」「あなたのご計画のために、私は何の役目を与えられているのでしょうか?」と尋ねることとなるのです。このお方のご計画に従って歩む歩みが与えられている私たちは何と幸いな者なのでしょうか。皆さまの今週の歩みが、聖霊の執り成しのもと、父なる神の業を見せていただく歩みとなりますように。

2017年1月19日木曜日

詩編第52編「神の慈しみに依り頼もう」


この詩編が主日礼拝でルカ18:9-14を読む日に与えられたのは不思議だ。自分を頼りにする正しい人と、目を上げることもできない徴税人である。詩編52では「善より悪を、正しい言葉よりうそを好む」者に神は報いると確信する。1,2節ではダビデがサウル王に追われていた時の詩編だとある。王に押しつぶされそうな者の言葉。神に従うことを幸いと信じる。神に従う人とは、神に依り頼む人。わたしの正しさを放棄し、神の恵みに頼る人のことだ。

2017年1月15日日曜日

ルカによる福音書第18章9から14節「ごめんなさい」と言えるしあわせ

主イエスの譬え話です。二人の人が登場します。彼らは神殿に祈りに来ました。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人でした。ファリサイ派というのは、とても真面目に毎日の生活をしていた人たちです。周りの人からは尊敬され、一目置かれる存在でした。実際、この人はこういうふうに祈っています。「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。」この言葉だけを聞くと、何とも厭なやつのような気もしてしまいますが、恐らく実際にそうやって生きていたのでしょう。彼が言っていることを全部やったのだとしたら、2000年前当時の基準からしても相当すごいことです。なかなか真似できません。しかし、ここにはもう一人の人が登場しています。この人は徴税人でした。当時の徴税人は罪人の代表格のように考えられていました。徴税人は文字通りに税金を徴収するのが仕事ですが、これは委託業で、民衆からいくら集めても構いませんでした。国に規定の額さえ納めれば、後はどんな不正を働こうとも黙認されていたのです。当然、嫌われていました。この嫌われ者の罪人は、祈るために神殿に来たというのに、遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言います。「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」そんな譬え話をして、イエスは最後におっしゃいます。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。」この話を聞くといかにもファリサイ派の人が高慢ちきで厭なやつだったからいけないという気になってしまいますが、イエスさまが伝えようとしておられるのは、少し違うことなのではないかと思います。この話は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」といって始まっていました。この「うぬぼれる」と日本語に翻訳されている元の言葉には「頼りにする」という意味もあります。つまり、あのファリサイ派の人は自分の生き方の正しさを頼りにしていました。その結果として、高慢になっていたのだと思うのです。自分は立派に生きている。他の人よりも努力している。隣の人よりも結果を残している。そういう自信は、自分の生き方を頼りにさせますし、自分の正しさを頼りにする物の見方は、他の人との比較の中に自分をおきます。そうすると、他の人と自分とを比べて、まさっていれば優越感に浸るし、劣っていれば劣等感に苛まれる。そして、優越感をもてるような自分であれば、他人を見下します。ファリサイ派の人は立派に生きていました。それ自体はすばらしいことです。でも、その自分のすばらしさに頼り始めたとき、他の人はつまらない存在になりました。あの徴税人の男は、自分を誰と比べるのでもなく、ただただ神様の前に自分の罪深さを嘆き、自分に絶望しながら、神様に助けを求めます。神に頼ったのです。神様、助けてください、罪深いわたしを憐れんでください。この譬え話をしてくださったイエス・キリストは、罪深い私たちの友になるために来てくださった神の子です。この方を頼って、助けてくださいと祈りましょう。   

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリス...