2017年3月30日木曜日

詩編第62編「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」


すばらしい詩編。一読してそう感じた。「暴力に依存するな。力が力を生むことに心を奪われるな。」力に依り頼むとき、神を忘れるからだ。今、人に襲われ、欺かれている。この祈りの冒頭では「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っていたが、人の脅威を前に、自分の力を捨てて神により頼み続けることが難しかったのだろう。6節では「私の魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ」と変わる。そう自らに言い聞かせる。神こそ真の救いだからだ。

2017年3月26日日曜日

ルカによる福音書22:31〜34「私たちの信仰のために祈られる主イエス」

今日も神に召され、生かされております。自分の願いではなく、神の御心がなるようにとの祈りに導かれております。主イエスによって、私たちの人生が定められています。どのように定められているのか。それを知ることで、悔い改めの道をたどりたいと願っております。本日は、みなさまと共にルカ福音書にあるペトロにかけられた主イエスの言葉に耳を傾けております。▼ペトロは三度、主イエスを知らないと言いました。このことは4つの福音書すべてに描かれていることです。ルカ福音書では「信仰が無くならないように祈った」と主イエスがペトロのために祈りをしたことが書き残されている。主は弟子の信仰のために祈られるお方だと言います。▼説教黙想アレテイアにてこの箇所の黙想があります。人の覚悟と信仰の関係を論じています。信仰とは決して人の覚悟や信念などではないと黙想者は言うのです。ペトロが三度、主を否定したとき「ペトロの信仰は一旦失われた」と思われることがあります。三度、否定したのですから、この時点でペトロが信じているとは思えないということです。しかし黙想者はここで主イエスの祈りによってペトロの信仰が保たれていると言うのです。主の祈りは確かだからです。ペトロの信仰は主イエスの祈りで保っている。信仰というものは人の信念や覚悟によって成り立つものではない。そのことを明らかにするのです。▼これを読みました時、私は心動かされつつ、一つの聖句を思い出しました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。(ヘブ11:1)」見えない事実。ペトロが思い描いていたであろう信仰は、崩れ去っていきます。しかし、主イエスの言われる信仰はペトロの内に確かにあり続けました。主イエスがペトロのために祈られていたからです。とするならば、信仰というものは、自分の信念や覚悟が打ち砕かれる時にも、むしろそんなものとは関係がなく、ただ主イエスが祈っていてくださるから、人に与えられているものだと言うほかありません。▼それを知るとき、私たちは信仰を持っているということを誇ることができなくなります。人の覚悟というものの正体が暴かれます。このときのペトロの覚悟は、誰が偉いのか?という弟子たちの議論の後に出て来ました。さらに辿ると、主イエスが「裏切る者がいる」と仰ったところから、この議論が始まりました。弟子たちは「私は裏切らない」という主張の後、「私は偉いのだから」と言いたくなった。「私だけは大丈夫だ」と思いたかった。そこから生まれてくるペトロの言葉が、「(しかし)主よ、覚悟はできています」という言葉であったのでしょう。とりあえず自分は大丈夫。そう思うペトロに対して、立ち直ったら兄弟を力づけてやりなさい、と主イエスは言われているのです。▼信仰が主の祈りによって与えられている。兄弟を力づけるために与えられている。このような信仰が今、私たちに与えられているのです。   

2017年3月23日木曜日

詩編第61編「心挫ける者の祈りを神は聞かれる」


「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。」なんと幸いな言葉であろうか。まさに、このような時にこそ主なる神様を呼ぼう。心がうずくまり、とぐろを巻いて萎えてしまうときに神は私たちを「高くそびえる岩山の上に」導いてくださる。これは確かなことだ。「あなたは常にわたしの避けどころ」。そう。神に逃げ込めば良いのだ。キリストは心挫ける私の困った現実の中、そこで叫び、この現実の中で神を畏れ、祈っておられる。

2017年3月19日日曜日

ルカによる福音書11:5〜10「求めつづけなさい」佐藤岩雄牧師

このようにして、さがみ野教会で皆さんにお会い出来ることを嬉しく思います。 本日は、皆さんと一緒に、「祈り」について学びたいと願っています。祈りというのは、この私たちが、人生を取り戻し、人生を建てあげていくための大切なキーワードです。祈りというのは、「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。」と聖書が言うように、この永遠を思う思いと、今この時という瞬間が交差する場といえるでしょう。祈るときに、私たちは、永遠の時を感じながら祈るのです。そこから、もう一度、今を見つめなおすことが出来るのです。ですから私たちは今この時だけに行き詰まる必要はないのです。
 本日の聖書箇所には、友人にパンを借りに行く人の姿が書いてあります。夜中に、非常識と思えるような仕方ですけれども、彼は、友人が来たから、パンを貸してくれと、近所の人を起こすわけです。多分、長い旅で夜中にお腹を空かせてきた友人に何とかして食事をふるまってあげたかったのでしょう。自分のところにはないけれども、あの人だったら、絶対にパンの用意があるというお宅の戸を叩きました。あくまで祈り続ける。このことが、状況を変えるということを聖書は伝えています。祈ることと、祈らないことでは状況が違ってくるというのです。私たちが、本当に信じて祈るのであれば、その通りに道が開かれてくると聖書や約束しています。
P.T.フォーサイスという牧師の書いた「祈りの精神」という本に、
祈りは、神のかたちに造られた人間の力と同様に、神の意志に逆らう形をとることができる。神の意志に逆らうことも神の意図にかなう場合がある。」
とあります。変えることの出来ない過去や、失敗や、人生の傷というのは、 私の人生の中でいくらでもあります。私たちは、それを嘆いて過ごすことも出来ます。しかし、祈りはそこに光をあててくれるのです。私たちが祈るとき、神の計画の全てを見ることは出来ませんが、私たちはもう一度、神の導きに信頼して自分の人生と向き合う事が出来きるのです。
ルカによる福音書第119節から10節で、主イエスは言われます。
「わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」この言葉が、今日も真実であることを信じて、歩み始めましょう。

2017年3月16日木曜日

詩編第60編「大地が揺らぐときにも」


2節の表題は恐らくこの戦いのさなか、という意味であろう。まだ勝利を手中に収めていない。だから、11節以下で神に助けを求めている。詩編作者はひたすら神からの助けを求める。「人間の与える救いは空しい」からだ。そこで思い起こすのが、聖所で聞いた、つまり礼拝で聞いた神の約束である。8から10節に記されている。「あなたの愛する人々が助け出されるように、右の御手でお救いください。」我らもそう祈ろう。神の約束を思い起こして。

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...