2017年5月28日日曜日

テモテへの手紙二2:1-13「キリストの恵みによって強くなろう」

さがみ野教会の前身の栗原伝道所は1976523日に開設記念礼拝を献げました。毎年、ペンテコステ(聖霊降臨の主日)の礼拝をさがみ野教会の設立記念礼拝として献げてきました。今年は来週です。来週、さがみ野教会は41周年を迎えます。つまり、今週までが40周年ということでしょう。今朝ここで礼拝を献げている私たちも、栗原伝道所・さがみ野教会の40年の歴史に連なっています。今朝私たちに与えられているテモテへの手紙は、使徒パウロが若い伝道者テモテに宛てた手紙、牧師としての心構えを書き送った手紙です。2節にこう書いてあります。「多くの証人の面前でわたしから聞いたことを、ほかの人々にも教えることのできる忠実な人たちにゆだねなさい。」テモテは伝道のことでいろいろと苦労していたようです。そういうとき、得てして私たちは孤独になる。パウロはテモテに言います。あなたの周りには、神のために忠実に働く同労者がいるではないか。彼らに委ねなさい、と。パウロからテモテへ、テモテから新しい同労者へ。テモテはそういう福音伝道の連環の中にいます。パウロはテモテに教会を見せようとしています。教会の仲間たちを。彼らを愛し、信頼して、共にキリストに仕えようと呼びかけます。昨日、日本中会の召天者記念礼拝がありました。平尚紀伝道師が説教しました。聖書は「私はまことのぶどうの木、あなたがたはその枝である」という主イエスの言葉でした。ご実家のとなりにあるというブドウ畑を紹介しながら、新しい枝は古い枝につながって、幹につながっている。私たちも、既に亡くなった先輩につながることでキリストにつながっている。そうおっしゃっていました。なるほどと思います。ただ、既に亡くなった方だけではありません。すべての先達と後進につながることで、私たちは一つの大きな木として実を結びます。これまでの41年間で、栗原・さがみ野教会には総計102名の教会員が名前を連ねました。逝去者や転出者を含みます。そのすべての枝々が互いにつながることで、私たちはキリストと一つにつながる。11から13節は2000年前の教会の讃美歌の歌詞と言われます。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」これは、洗礼のことを指しているようです。洗礼を受けて、私たちはキリスト共に一度死んで、キリストと共に新しい命を生きるようになったのです。洗礼を受けたあなたは今キリスト共に生きているし、洗礼を受けていない人は、この新しい命に招かれています。あるいは他の教会のメンバーのままここに来られている方も、この教会で、ここで、共にキリストの枝として生きていきましょう!教会では、ときに、躓くことも起こります。テモテも何かに躓いていたからこそ、パウロがわざわざ手紙を書いたのかもしれません。パウロがテモテに思い起こさせた讃美歌ではこう歌っている。「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。」誠実と真実は同じ言葉です。信仰とも訳せます。私たちは不誠実で不真実で不信仰でも、キリストは誠実、真実、信仰を貫いてくださる。それは確かです。改革者ルターは毎日神の前に悔い改めようと言ってあの改革運動を始めました。神の前で毎日悔い改めて、新しくしていただく。絶望するしかない私たちであっても、悔い改める者をキリストは新しくしてくださる。それが教会の歴史です。ここに私たちのしなやかな強さが生まれます。 

2017年5月25日木曜日

詩編第70編「人間関係に悩む者の祈り」


人間関係に悩む者へのアドバイスとして聞いたことがある。夜の祈りの具体的な勧めであった。あなたを傷つける人を思い出して、その人を思いながら使徒信条を唱える。一つひとつを、神がこの人のためにしたのだと確認をするのだ。この詩編の祈り手は人間関係に悩み、激しい言葉を口にしている。しかし、彼の逃れ場は主なる神であった。早く私を救ってくださいと神に祈る。神の歴史を貫く大いなる救いを仰ぐとき、神の助けに気付く。

2017年5月21日日曜日

ヨハネによる福音書第16章22から24節「神に願いを」

主イエスは悲しむ弟子たちを前にして言います。「あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」私たちの心にひっかかる言葉ではないでしょうか。「何も願わなかった」なんてあり得るでしょうか。「今は、あなたがたは悲しんでいる」と言われることは、すっと心に入ってきます。確かに、悲しんでいる心を持つことがある。生活していて、すべてがすべて喜びに満ちているということは無い。22節の主イエスの言葉は、まず初めに私たちの今の姿を見つめるようにと導く言葉のようです。
 今、あなたがたも悲しんでいる。あなたがた「も」と言います。他に誰が悲しんでいるのでしょうか?前の節の21節を見てみますと、「女は子どもを産むとき、苦しむものだ。」と言われています。その文脈で、主イエスは「あなたがたも悲しんでいる」と言われる。つまり、女性が子どもを出産する時のように、喜びを前にした悲しみを今、あなたがたは抱いているのだ、と主イエスは言われているのです!これが主イエスの見つめる私たちの姿です。なんと嬉しい事でしょうか。
 ですが、本当にそうなのか…と半信半疑な気持ちになってしまうことも私たちにあるでしょう。そして、続く主イエスの言葉にひっかかりを覚えます。「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。」とても驚きを感じます。もしかすると怒りを持ちたくなるかもしれない。「何を仰いますか!!私は願っているではありませんか。お聞きにならないのは、あなたではありませんか。」と、言いつつ、「では何を願っているのか?」と問われると、言葉が詰まるということも思います。本当に私たちは願いを持っていたのでしょうか。
 主イエスの言葉というのは、私たちの心の底まで触れてくる言葉です。何をあなたは願っているのか?38年間回廊で横たわっていた男の方に、「良くなりたいか」と尋ねられる主イエスは、私たちにも「何を願っているのか」と問われます。願いを言葉にするということは難しい事でもあります。ですが、主イエスは私たちに言われます。「願いなさい。」「わたしの名によって願いなさい。」そこで、主イエスが共におられることを私たちは知るのです。願いを打ち明けることを待っておられる主イエスとの出会いを私たちは経験するのです。主イエスとの出会いによって、私たちは喜びに満たされます。
 この方は私を見捨ててはおられなかった。この方は私の願いをご存知であった。「わたしは再びあなたがたと会う」と主イエスは言われます。「あなたがたを見る」という意味としても理解できます。主イエスは私たちのことをご覧になっておられる。悲しみに捉われそうなときに、むしろ主イエスは私たちの願いをご覧になっている。素直にこの方に打ち明け、祈り求める生活を送りたいと願わされます。

2017年5月18日木曜日

詩編第69編「神よ、わたしを救ってください」


謂われない敵意に囲まれ、理由もないのに憎まれる。兄弟であるはずの者が私を失われた者とし、私を異邦人、よそ者と見なす。人の敵意は辛い。針のむしろは痛いのだ。その苦しみの中から神を呼び求める。「恵みと慈しみの主よ、私に答えてください」と。そして自分に敵意を向ける者のことはもう神にまかせてしまうのだ。確かに、私たちがいつまでも誹謗中傷にかかずらう必要はないのである。むしろ神を讃美することに心身を向けたい。

2017年5月14日日曜日

創世記第1章26から27節「あなたは神さまが造った芸術品!」

 キャッチボールをしたことはあるでしょうか?私は小中高とサッカーをしていたので、キャッチボールというよりはパス練習ですが。どんなボールを使っても、キャッチボールというのは、一番初めにする練習だと思います。しかも、一人ではできない練習です。相手の取れるところにボールを投げて、取ってもらう。言葉のキャッチボールも、目では見えないですけれど同じです。相手に届く言葉を渡す。相手の言葉を受け取る。当然のことかもしれません。
 毎週日曜日、教会で行っている「礼拝」というのも、言わば言葉のキャッチボールです。誰と誰とで行うキャッチボールなのか。それは、神さまと人との間で行うキャッチボールです。神さまは私たちにボールを投げてくださいました。聖書という言葉を与えてくださいました。今朝は、「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」という言葉を読みました。少し難しい言葉もありますが、一言で言うと、神さまはあなたをお造りになりました。しかも、神さまにかたどって、造られたのです。あなたは神さまが造った芸術品です!
 あなたは神さまの芸術品。これは長い聖書の中でも、一番初めに書かれていること。しかも、神さまはほかのすべての動物も造られましたが、それらは神さまにかたどって造られた訳ではないと言うのです。つまり、人間は特に神さまに似せて、かたどられて造られた、神さまと言葉のキャッチボールをする存在なのです。そして、神さまはあなたを見て言います。「素晴らしい!良くできた!あなたがいてくれてうれしい!」
 まだ、何にも成長していない時から、神さまはあなたを喜びました。まだ、何にも勉強していない時から、神さまはあなたが素晴らしいと言いました。まだ、何にも働いていない時から、神さまはあなたを見て「良くできた」と喜んだのです。神さまは、すべての人々をそのように見ていてくださいます。なぜなら、自分で造ったのですから。
 私たちは学校で過ごすときや、家族の間で過ごすとき、楽しい事ばかりではないかもしれません。友だちのひと言で傷ついてしまったり、先生やお家の人に怒られて悲しんでしまったりすることがあります。そんな時、「あぁ、自分はダメなのかなぁ」とか「自分なんていらないのかなぁ」とか思ってしまうかもしれない。さらに酷いときには、「自分なんて嫌いだ!自分なんていなくなればいい!」と思うことだってある。けれども、決してそんなことはありません。神さまは、聖書を通して私たちの姿を教えてくれています。「あなたは、わたしの芸術品だ!最高傑作だ!あなたがいてくれて、わたしはうれしい。」

神さまは、あなたを造った方で、あなたを喜んでいるお方です。

ルカによる福音書1:46~56「歌いつつ迎えよう、クリスマスを」

クリスマスには讃美歌が溢れています。キリスト教会の礼拝には歌が欠かせません。特にルカは賛美を愛した人です。ルカによる福音書にはたくさんの賛美が残されています。マリアの賛歌、ザカリアの賛歌、主イエスがお生まれになった夜の天使の歌、シメオンの賛歌。思えば、どれもクリス...