2017年6月29日木曜日

詩編第75編「公平な裁きはただ神にのみ」

「私は必ず時を選び、公平な裁きを行う。」主はそう言われる。公平な裁きを誰もが求めている。「公平」とはどういうことだろう。立場や見方によって公平さが意味するところはずいぶんと違う。自分の考える公平さが世でまかり通るとは限らない。懲らしめてもらいたいはいくらもいる。しかし、人を高く上げうる者は本当はどこにもいない。「神が必ず裁きを行い、ある者を低く、ある者を高くなさるでしょう。」神の御前での謙遜を教えられる。   

2017年6月25日日曜日

マタイによる福音書9:27-34「あなたの信じる通りに」

 マタイによる福音書において、主イエスは山上の説教をされた後、人々の病や苦しみを癒されました。89章と、2章分の長さで主イエスの御業が描かれております。そして10章では、弟子たちを派遣するという物語に変わっていく。本日の箇所は、主イエスが群衆になさった御業の締めくくりの部分と言ってもよい箇所です。見えなかった目が開かれる箇所です。主イエスは多くの人びとをご覧になられました。多くの人びとと出会いました。主イエスは彼らが飼い主のいない羊のような有様であることをご覧になられ深く憐れまれた。一方で、あまり喜んでいない人々も描かれています。ファリサイ派の人々です。彼らは、「あの男は悪霊の頭の力によって悪霊を追い出しているのだ」とつぶやく。マタイ福音書89章では、憐れみを求める人々と、憐れみを持つことのできない人々と、本当の憐れみをお持ちのお方が、行き交うようにして描かれております。
 その中で本日の箇所では、二人の盲人が登場します。盲人たちの目が開かれる。聖書に親しんでおりますと、目の見えない人というのは意外と多くの箇所で出てくる。ですから、ふと「あぁ、聞いたことのある聖書箇所だ」と思うかもしれません。ですが、考えてみますと、私たちもまた肉眼で主イエスを見ることは許されておりません。ですから、私たちもまた「神さま、どこにおられるのか?」と思うこともあります。そんなとき、聖書に登場する盲人と全く同じ立場に置かれているのではないか。そのように私は思います。この二人の盲人に起こった出来事は、私たちにも起こる出来事です。
 二人の盲人は叫びました。「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください。」主イエスは答えます。「わたしにできると信じるのか」と。何をでしょうか。目を開くことでしょうか。主イエスが問われたのは、必ずしも目を開けられると信じるのか、ということではないと思うのです。もっと本質的な、そして盲人の叫びに対して率直な応答として、主イエスは問われました。「わたしがあなたがたを憐れむことができると信じるのか」と。主イエスは何か解決を与えてくださるだけのようなお方ではない。主イエスは、深い憐れみをもって、あなたの苦しみを共に担う者として、あなたに接しようとしている。このことを信じるのか。主イエスが問われている。言葉が詰まりそうになります。本当にあなたは私のことを憐れんでくださるのですか?私はあなたの憐れみを受けるにふさわしい者ではありません。言い訳や、言い逃れをしたくなる思いも出てくる。しかし、二人の盲人たちは、応えます。「はい、主よ」と。シンプルに応えます。主イエスは憐れみをもって、私たちに接しようとされている。そのことを信じるか。問われたとき、私たちも「はい、主よ」と応答するのです。それ以上でもなく、他の言い訳を述べる必要もない。私たちもまた、「はい、主よ」と応える者となりたい。「はい、主よ」と答えつつ、憐れみ深い主イエスと共に今週も歩むことができますように。

2017年6月22日木曜日

詩編第74編「神よ、立ち上がり救ってください」


何という絶望の言葉であろうか。神が、御自分の養われる羊の群れに怒りの煙をはいておられる。都は廃墟となり、人々は弾圧されている。明らかに敗戦と捕囚が背景にある。イスラエル最悪の時代の一つだ。それなのに、神は何もしてくださらない。「右の御手は、ふところに入れられたまま。」それでも望みを持つのは、この天地を造られた力強い業をもって救ってくださると信じるから。改めて思う。創造信仰は今ここでの救いへの信仰だ。今あなたのために働く神の御業だ。

2017年6月18日日曜日

エゼキエル書第37章1から14節「それでも望みがある」

教会って一体なんでしょうか。きっと、幻を見るところなのだと思います。幻というと、何だか儚くて頼りない印象を受けますが、聖書に登場する幻は日本語の語感とは少し違うように思います。イマジネーションによって見えてくる、現実を超えたものを見るまなざしです。預言者エゼキエルは幻に生きた人です。「わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。」古戦場なのでしょうか?詳しいことはよく分かりません。しかし、これはただの骨ではない。そこには多くの骨があり、それらは甚だしく枯れています。神さまはエゼキエルに言われます。「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ我々は滅びる。』」エゼキエルが見た幻は、当時のイスラエルの人々の心象風景そのものと言っても良いでしょう。戦争に敗れ、国土は荒廃し、国の要人は外国に連れ去られ、国は崩壊しました。イスラエルは骨になっただけではなく、甚だしく枯れていたのです。預言者は時代の正体を幻の内に見ています。しかし、神さまは更におっしゃいます。「霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ。これらの殺された者の上に吹きつけよ。そうすれば彼らは生き返る。」望みがうせるとき、滅びるしかないとき、しかしそこに神の霊の風が吹きます。私たちに命を与えるために。望みがあるのです。教会は神が下さるいのちの喜びを共に分かち合い、一緒に喜び合う場所です。讃美歌339番に「来たれ聖霊よ」という歌があります。「来たれ聖霊よ、われらの心に。つくられしものを満たせ、恵みもて。」これは訳詞ですが、原詞では「来たれ造り主なる霊よ」となっています。神の霊である聖霊は造り主、いのちの造り主です。私たちにいのちを与え、今生かし、慰め、心に愛の火を燃やしてくださいます。そのために四方から聖霊の風が吹いています。この讃美歌の歌詞は9世紀に活躍したラバヌス・マウルスという祭司が作りました。中世から現代まで歌い継がれてきたのです。何と、16世紀の日本でも歌われていました。1582年にローマ教会の教皇のもとへ旅立った伊東マンショら天正遣欧少年使節が広めたようです。マンショは1590年に帰国し、楽器や活版印刷を持ち帰りました。1605年、つまりもう江戸時代ですが、日本で最初の讃美歌集が出版されます。その中に「来たれ造り主なる霊よ」の楽譜が入っていました。安土桃山時代の末期や江戸時代に入っても、この歌を日本のキリスト者がうたっていました。そして、キリシタン弾圧の時にも歌い続けていた日がありません。死に至るとき、造り主なる聖霊よ、来てください、私を慰め、いのちを与えてくださいと歌いながら、自分のいのちを神に捧げました。枯れた骨のような私たちのところへあなたの風を吹かせてください!望みのないところに望みを拓いてください!墓穴を開き、私たちを墓から引き上げ、死から救ってください!彼らはそう歌い、信じ、そして信仰を貫いたのでしょう。この国でキリスト者達はそう歌い、信じてきました。現代に生きる私たちもその歴史に連なっています。そして、私たちさがみ野教会もその歴史の一端に加えられています。今の時代は決してたやすいものではありません。今こそ私たちは祈りましょう。「聖霊よ、来てください。いのちを与えてください。望みを与えてください。私にも、そして、望みを失っているあの人にも。」   

2017年6月16日金曜日

詩編第73編「心の清さは神を求める愚直さ」


神は心の清い人に対して恵み深い。しかし、2節ですぐに「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ」、と続く。それだけに身近な詩編だ。何を誤りそうになったのか?神に逆らう者の安泰がうらやましくなった。神に逆らっても安泰なら、心清く生きる意味がどこにあるのか?むなしいではないか(13節)。多くのキリスト者がこの葛藤を知っているのではないだろうか。しかし、神が私の手を取り、心愚直に神を求める者に御自分を示して下さる。

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...