2017年7月30日日曜日

コリントの信徒への手紙一第1章18から31節「愚か者になろう」

アレテイアという説教者のための雑誌があります。今年の冬にクリスマスの特集を組んだ増刊号を出すということで、寄稿しないかと声をかけてくださいました。説教のための黙想の文章です。マルコによる福音書1:1-8を、アドベントの御言葉として聞き取る黙想を求められまして、今、勉強をしています。洗礼者ヨハネが登場する場面です。いろいろな本を開いてみましたが、改革者マルティン・ルターの小さな文章が心にとまりました。「キリストの恵みを獲得するのにふさわしい者となるために、人間は自分自身に徹底的に絶望しなければならない。」私の心に刺さりました。刺のようにささっていて、どうしたら良いのか分からないところもあります。自分自身に絶望する、しかも徹底的に絶望する、と言います。私は、自分に絶望しているのだろうかと思います。何に絶望するのか。今、毎朝、早天祈祷会の奨励のために御言葉を読んでいます。聖書を読みながら痛感しないわけに行かないのは、自分の愛の欠落です。毎朝こうやって御言葉に触れているはずなのに、どうしてということを今一度真剣に考えないわけにはいかない。忙しかったり、疲れていたり、言い訳は色々あります。しかし何と言いつくろっても、愛することから遠い自分の言動を見るにつけうんざりします。主イエスがお求めになったように、自分を愛するように隣人を愛することができていません。しかし、なお私は思わないわけにはいかない。自分自身への徹底した絶望を私は知っているのだろうか、と。むしろ、本当に絶望することを知らないのではないか。ナチへの抵抗に生きたボンヘッファー牧師は言います。「あなたは罪人、救いようのない大罪人である。しかし、あなたを愛している神のもとへ、ありのままの罪人として来なさい。神はありのままのあなたを望んでいるのである。しかも神は罪人に祝福を与えるためにすでにあなたのもとに来てくださった。大いに喜びなさい。」だから、神さまの前では、取り繕ったり格好つけたりするのは、間違っていたのだと思います。どうしようもない罪人であることに徹したらいい。神を求めてもいないし、神を知ろうともしていない私であることに。どこかで罪に絶望する私を演じようとしていたのだと思います。私はそれどころではない大罪人。救われようがない。他の何者でもありません。私たちの信じるキリストは十字架の上で殺されました。呪われて、捨てられて死にました。世の知恵からしたらバカな話です。どうして、犯罪人の一人と言われた男の処刑が私を愛の破綻から救いうるのか?そこには、何か確かな証拠やしるしはありませんし、理路整然とした説得的なせつめいもありません。かえって、神は、宣教の愚かさによって信じる者を救おうとなさいました。この「宣教」というのは、「説教」とも訳せる言葉です。それなら私にもよく分かります。わたし自身たくさんの説教を聞いて、信じたからです。私の心に語りかけてくれたたくさんの言葉やそれを語る存在によって。あるいは、「宣教」は「宣言」と訳すこともできます。あなたを愛してくださったキリストによって、あなたは神の怒りから救われた。この方が私の身代わりになって十字架にかかってくださった。私を生かすこの福音を、今日、私も愚かになって宣言します。   

2017年7月26日水曜日

詩編第79編「激しい思いを主に委ねる」


激しい報復の詩編である。バビロンとの戦争に敗れて捕囚された時代を背景としているのだろう。敵への復讐を神に願う。「御怒りを注いでください、あなたを知ろうとしない異国の民に。」戸惑う。しかしフト思う。私はこのような言葉はキリスト者らしくないと封じ込めるが、心の中には復讐心が渦巻くことがある。むしろ、この詩編のように祈るべきではないか、と。激情をこそ神に申し上げるではないかと。それが委ねるということなのだ。

2017年7月23日日曜日

ヨハネによる福音書4:7~26「主イエスが共におられる」

サマリヤの女性が井戸に水を汲みに来ました。誰もいない正午の時間です。重い足取りです。あえて誰とも会わない時間を狙ってサマリヤの女性は来たのですが、一人の男性との出会いをしました。その方は「水をのませてください」と言います。ユダヤの教師らしき人物が声をかけてくるなんてユダヤ人から蔑まれているはずの自分に声をかけてくるこの人は、いったい何を言おうとしているのだろう。女性は戸惑いました。
 主イエスとの出会いというのは、私たちも戸惑いから始まるということがあるかもしれません。なんでこんな言葉を私にかけるのだろう。ときに反発したくなることもある。けれども主イエスは私たちが願うよりも先に、私たちと共に歩みを始められます。
サマリヤの女性はこの男性と対話を重ねます。話を聞いていくとどうやらこの男性は「生きた水をあなたに与えることができる」と言っているらしい。このサマリヤの女性は、本当は渇いておりました。喉の渇きというより、人との親しさという面で渇いていた。主イエスは言われます。「あなたの夫をここに呼んできなさい。」この質問は、サマリヤの女性に突き刺さりました。この女性は、以前に5人の夫がいた。今も連れ添いがいるが夫ではない。おそらく周りの人々からは後ろ指をさされるような存在だったのでしょう。「あの女は不道徳な女だ」だから、この女性は誰にも会わないような時間帯に水を汲みに来た。主イエスは一見すると関係の無いような、しかし、この女性の抱えている問題を見つめられた。「あなたの夫をここに呼んできなさい」。女性は「わたしには夫はいません」と答えます。主イエスはその応答を「ありのままを答えた」と言います。「真理」という意味の言葉です。「あなたは真理・真実を言った」。
ポール・トゥルニエという信仰をもった精神学者が書いた『強い人と弱い人』という本があります。そこには、このように書いてあります。
心理学的にみると、人は強い反応をする人、弱い反応をする人と分けることができるかもしれない。強い人は防衛的、攻撃的、プレッシャーに強い。弱い人は、抑うつ的で自信が無い。しばしば、精神医学では強い反応を持てるように目指して、ケアが行われる。しかし、これは本質的な解決にならない。本当の解決は信仰による解決である。罪の告白をした者が、自分が神と共にいると信じる意識の中で、人と接すること。これが本当の解決なのだ。
サマリヤの女性も「わたしには夫はいません」と告白をしました。罪の告白です。その中で救い主と出会いました。そして人々の前に出て行く。私たちも、自分のありのままを打ち明けることができる。そこで救い主に出会うことができる。恐れから自由になります。この自由をもって、今週も主イエスと共に生きていくものでありたいと願います。

2017年7月20日木曜日

詩編第78編「負の歴史から目を離さずに」

先祖が語り伝える「わたしの民」の歴史、出エジプト後の40年を回顧する。すぐ指摘するのは先祖が「頑なな反抗の世代」だったこと。かつての西独の大統領フォン・ヴァイツゼッカーを思い起こす。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。」ドイツの敗戦40年を覚える演説の一節だ。神への反逆を重ねる歴史からどうやって救われるのか。詩編は王ダビデを喜ぶ。我らはダビデの家から出た真の王イエスにより頼むのだ。

2017年7月16日日曜日

ローマの信徒への手紙10:5〜13「神を信じる者は失望しない」

「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです」という言葉があります。この「区別」という言葉を他の翻訳では「差別」と訳していました。ユダヤ人、ギリシア人だけではありません。私たちはあの人はふさわしい、あの人はダメといろいろな差別をします。あの人はユダヤ人、ギリシア人、この人は日本人、米国人、中国人、台湾人・・・と選別します。今から2年ほど前、コロンビアで開催されたカンバーランド長老教会の総会に出席したときのことです。当時も今も、米国社会の大きな問題は不法移民問題です。そのことが議場で取り上げられていました。彼らを教会は受け入れるべきなのか、と。若者も含めて、議場では白熱したやりとりが交わされていました。最終的に、「不法」移民という行政の言葉によって分類するのは止めよう、私たちは誰であっても受け入れようということになりました。米国社会にあってキリスト者として生きる彼らの判断を誇らしく思いました。神の前で私たちは一体何者なのかと問うたとき、あらゆる区別や差別は相対的なものに過ぎなくなります。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。これが福音です。区別がないから私たちも救われたのです。米国では昨年の選挙で移民にあまり寛容ではない主張をした人が大統領に選ばれました。今、私たちの米国にいる姉妹教会はどう考えているのでしょうか。きっと同じ確信に生き、隣人に福音を宣べ伝えていることでしょう。福音に生きる者はときに社会の価値観と違うことを語り出します。「主を信じる者は、誰も失望することがない」と書いてあります。この「失望」という言葉は、他の翻訳を見ると「辱めを受ける」となっています。主イエスを信じて恥をかくことはない、と言うのです。なぜ?主イエスは私たちを裏切ることが決してないからです。そうは言っても、日々の思い煩いがあるし、祈っても聞かれないことがあります。福音が生む摩擦もあるのです。そういうことを神さまは気にも留めず、自分のことなんて忘れてしまっているのではないか?「『心の中で「だれが天に上るか」と言ってはならない。』これは、キリストを引き下ろすことに他なりません。また、『「だれが底なしの淵に下るか」と言ってもならない。』これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。」聖書はそう言います。自分みたいな人間のことを神は覚えていないとか、誰も自分の重いこころは分かってくれないとか、私たちは考えてしまう。しかし、主イエスはそんな私のために天にも上り、陰府にも降ってくださいました。キリストは私たちを裏切らず、私たちのことを恥ずかしいと思われず、私たちを御自分の兄弟だと公言してくださいます。そこには、何の差別も区別もないのです。何人であっても、病気の人も健康な人も、障がい者も健常者も、どんな人のことも私たちがこころから差別せずに共にキリストの下さる救いのメッセージを共に喜べるなら、それは神の真珠のような宝です。真珠は貝に小さな核が入り込むことで生まれます。私たちの真珠を作る「核」は「イエスは主である」という告白です。これは私たちが生み出した告白ではなく、新約の時代から教会が受け継いできた共同の告白です。この告白が教会をつくる。私たちもその一員です。共に主を呼び求めましょう。イエスの復活を告げる福音を共に喜びましょう。   

2017年7月13日木曜日

詩編第77編「思い起こせ、神の救いの御業を」

神に向かって声をあげている。夜中の祈りだ。「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます。」眠られぬ夜に不安や心配事が心を駆け巡る。眠れないことも恐ろしく、朝が来ることもまた恐ろしい。私は主に突き放されたのか。主の右の御手は変わってしまった。しかし、この信仰者は神の御業を思い起こす。「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。」だからこそ、神は私の思いを越えた救いを起こされると信頼する。

2017年7月9日日曜日

マルコによる福音書第9章14から29節「信仰のないわたしを」

最近、キリスト者学生会総主事の大嶋重徳さんという方が『朝夕に祈る 主の祈り』という本を出版されました。「30日間のリトリート」という副題がついています。リトリートというのは静かなところに行き、静まって祈りのときを持つことです。主の祈りの小さなお話が、朝夕に一つずつで30日間分載せられています。一回に数分で読める量で、言葉遣いも優しく、内容もある良書です。先日この本を買って読み始めて、信仰のメンテナンスは祈ることだと、当然と言えば当然のことに気付きました。P.T.フォーサイスという人が『祈りのこころ』という名著を残しています。このようなことを書いています。私たちは自然から圧迫を受けます。自然というのは自然災害なども含まれるでしょうが、それだけではなく、例えば病気や老い、人間関係、思わぬハプニング、子育て、介護、その他何でも当てはまるでしょう。そういうものから私たちは圧迫を受ける。しかし、祈るときに知るのは、それらは単に自然が自分を苦しめているというのではなくて、祈りによる圧迫だということです。圧迫されて収縮してしまうときもあれば、伸びやかに拡張できるときもあります。しかし、収縮と拡張、そのどちらがよりよいときなのかは一概には言えません。圧迫がかえって必要なときもあるのです。祈る者は、圧迫による収縮と、そこからの拡張は、まるで心臓の鼓動のように私たちの人格を作り上げることを知ります。すべての生の圧迫は信仰の結晶をつくり出します。そこでは神は神の宝石を仕上げられます。ひとりの牧師の言葉に触れ、とても慰められました。祈ることで、初めて私たちは信仰者になり得るのです。今日の御言葉には、父親とその息子が登場します。息子は霊に取り憑かれて苦しんでいました。症状を見るとてんかん発作を思わされます。古代社会ではてんかんという病気がまだ解明されておらず、霊の仕業と表現していたのかもしれません。いずれにしても父は必死です。何とかして息子を助けたい。主イエスの弟子たちにはできなかった。父はイエスご自身に願います。「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」主はお答えになる。『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」父親は叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」自分の不信仰を丸ごと明け渡すかのような叫びです。立派な信仰ではない。不信仰と言われてもしかたがない。いや、自分を見れば信仰があるなんて言えない。しかし、そんな自分を丸ごと明け渡したのです。主はその子をいやしてくださいました。それに対照をなすのが弟子たちです。後でひそかに主に尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか。」イエスは言われます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ。」弟子たちが祈っていないはずはない。しかし、その祈りは祈りになっていなかったと主は言われる。不信仰だったのです。祈りにおいてそれが分かった。しかし、そういう私であることを丸ごと主に明け渡し、お任せして良いのです。主がそんな私を負ってくださるからです。不信仰は私たちがそれにつきあうほどの価値がありません。主は祈りによらねばと言いましたが、ここで祈ったのは父親です。自分の有り様を見れば惨めですが、その惨めな私を主に委ねる者は、そんな私を神がすでに救ってくださっていることに気付きます。それこそ祈りです。   

創世記第1章3節「内なる言葉と外からの言葉」

『マナ』という毎日の祈りのための雑誌の 11 月号にヨハネの黙示録のメッセージを書かせていただきました。ヨハネの黙示録というとどのようなイメージがあるでしょうか。おどろおどろしくて恐ろしいと思い込んでいる人も案外多いかもしれません。黙示録の肝は礼拝です。そもそも礼...