2017年8月13日日曜日

詩編第148編、ヘブライ人への手紙第11章1から3節「見えないものでできている」

アジア青年交流会(AYG)が月曜日に終わりました。先週の日曜日には香港、韓国、カンボジア、コロンビア、日本からの参加者がさがみ野教会の礼拝に来てくださいました。海外からは総勢62名。皆で神さまを賛美する歌をうたい、聖書の言葉に耳を傾け、お互いを語り合い、耳を傾け合い、楽しく遊び、とても素晴らしい大会になりました。神さまが造られた世界は広いとつくづく思います。アジアにもいろいろな歴史や文化を生きる人が大勢います。生活の場所も状況もぜんぜん違う。でも、同じ神を信じるということにおいて、私たちは一つです。私たちが共有するただ一つのものである「信仰」について、今朝与えられた御言葉にはこのように書かれています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」望んでいるのですから、まだ現実にはなっていません。しかし、現実がどんなにそれに逆らっていても怯まずに確信する。それが信仰です。この「確信」と翻訳されている言葉を「確信」と訳したのは、マルティン・ルターであったそうです。それまではむしろ「基礎」と訳されていました。ルターはヴァルトブルクというところに幽閉されているときに聖書をドイツ語に翻訳しました。その時、この「確信」という言葉の訳語がなかなか決まらなかった。友人のメランヒトンのアドバイスで「確信」と訳したそうです。ルターやメランヒトンが信仰をぶっつけているようなエピソードです。ただ、この単語は確信のような心の動きだけを意味しているだけではなくて、客観的な意味合いもあるそうです。もとの意味は「何かの下に据える」です。土台のようなものです。それで、ルターの時代に流通した基礎という訳語も付された。基礎と確信を会わせたような「保証」という訳もあります。さがみ野教会の教会堂は四本の重量鉄骨の柱が支えています。設計された方は、この地域でいちばん頑丈な建物だとおっしゃっていました。同じように頑丈で堅牢な土台に支えられています。信仰という土台です。信仰は望んでいる事柄の保証なのです。希望を失いかねないこの世界で、私たちは今抱いている信仰を保証として神に与えられているので、なお望みを失わずに確信するのです。AYGに参加した青年たちは、信仰に基づく望みを抱いていました。政情が不安定なところもあります。本当に貧しいところで伝道している人がいます。しかし、皆、遙かに仰ぎ見る天の故郷に帰る日のことを望んでいます。今週、815日を迎えます。折しも日本の上をミサイルが飛ぶかもしれない、そしてそれを迎撃する準備をしているなどというニュースが流れています。これからどうなるのか。何があろうと私たちは望みを捨てません。私たちが今こうして神を信じていること自体がその信仰の保証です。この世界を造った神が生み出してくださった兄弟や姉妹が私たちにはいるのです。信仰者は知っています。この世界は神がお造りになったのだということを。神が造られたのであれば、私たちには生きるべき目的があるのではないでしょうか。ジャン・カルヴァンという人は、私たちの生きるべき目的は神を礼拝するために神を知ることだと言いました。神を礼拝し、賛美するために、私たちは生きている。全ての造られた者よ、共に神を賛美しよう。神の御前にひれ伏そう。神に身をかがめるときに私たちは共に生きる喜びを発見する。私たちは希望を失いません。神を信じているからです。   

詩編第82編「地の基は揺らいでいる」

「地の基はことごとく揺らぐ。」恐ろしい言葉だ。私たちが大地のように信じ切っている価値観や判断材料、当たり前と思っていることがことごとく揺らぐ。私たちはそれに堪えうるのか?私たちは当たり前のように神に背き、弱者や孤児を食い物にし、苦しむ者や乏しい者の正し...