2017年10月29日日曜日

マタイによる福音書4:12-17「新しい時代の幕開け」

カズオ・イシグロさんの小説『遠い山なみの光』を読みました。悦子という今は英国に生きている女性の回想記です。朝鮮戦争の頃、悦子は長崎にいて、前夫の子を妊娠していた。その夏に悦子は万里子という10才くらいの娘を持つ佐知子という女性と知り合った。佐知子にはアメリカ人のボーイフレンドがいて、彼が自分をアメリカに連れて行ってくれることを夢見ており、子育てにも集中できず、現実を直視することができなかった。この小説にはたくさんの世代間ギャップが登場する。佐知子と万里子。悦子の夫とその父親。父親と元教え子。悦子と娘たち。人と人とのぎくしゃくした関係、そして当時の長崎に色濃く残る原爆の記憶。全体として非常に暗い色彩で物語は進んでいく。悦子が佐知子を思い出したのは、現在の自分の親子関係と重ねるところがあったからだ。実はあの頃妊娠していた娘景子は、英国になじめずに自殺をし、そのことでもう一人の娘ニキが家に帰省して母を慰めるために側にいたのだ。時代を隔て、二組のわかり合えない母と子がいる。なぜ、この暗い小説のタイトルは『遠い山なみの光』だったのでしょう?私は、これはほのかな希望を示すタイトルなのではないかと思います。この物語の最後は娘ニキを見送る悦子の笑顔で締めくくられています。最も辛い時に、互いに齟齬がありながらも寄り添ってくれるニキの存在が、悦子の遠い山なみの光だったのではないかと思うのです。私たちには後悔することがあり、悔いても悔やみきれなくて、顔を上げられないこともあります。自分の罪深さに震えるしかないのです。ローマの信徒への手紙7:7-25を私が初めて読んだのは学生の時でした。衝撃的な言葉でした。「わたしは何と惨めな人間なのでしょう。」自分の罪に言葉を失い、その惨めさを本気で悲しんでいます。苦しんでいます。これを書いたパウロという人の真剣さにたじろぎました。そして、よく分かりました。私も、自分の罪深さに呻きました。神さまのみもとへ帰ろうともせず、隣人を愛することもできない自分の身勝手さ。善を行いたいのに、そうすることができない。ルターはこのような聖書の言葉を真剣に読み、聖書の言葉に従って生きていました。聖書が言うとおりに愛と正義をもって生きた。真剣に生きようとすればするほど、苦しみは増した。自分の罪深さがよりはっきりと見えたからです。私たちの光、私たちの希望は一体どこにあるのでしょう?一体だれが私たちのために寄り添ってくれるのでしょうか?イエス・キリストこそが私たちに寄り添い、私たちを救ってくださったと聖書は伝えます。では、私たちは一体どこでその救いを味わうことができるのか?それは、教会です。教会の仲間たちと共に生き、共に祈り、共に御言葉に聞くことで、私たちはキリストと出会うのです。教会は過ちを犯すこともあります。ルターの時代の贖宥状(免罪符)などは代表的なものでしょう。真剣さを欠いた悔い改めです。お金や儀式で済ませようとする。ルターは訴えます。「私たちの主であり師であるイエス・キリストが、『悔い改めなさい・・・』と言われた時、彼は信じる者の全生涯が悔い改めであることをお望みになったのである。」毎日、神さまの御前で真剣に悔い改めようと呼びかけます。私には希望がないけれど、キリストには希望がある。キリストは私たちの光だから。毎日罪を犯してもこの方は毎日赦してくださる。主の御前に私たちの心を献げよう、と。 

2024年4月23日の聖句

神の道は完全。(詩編18:31) (イエスの言葉)「神の国は次のようなものである。人が地に種を蒔き、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。地はおのずから実を結ばせるからだ。」(マルコ4:26~28) 福音書記者マルコは主イエ...