2017年11月19日日曜日

イザヤ書6:1-13、使徒言行録15:1-21「教会の決断」

先週はファミリーサンデーの礼拝でした。礼拝の内容がかなり大胆に変わります。子どもの礼拝に大人が参加しているイメージですが、年に四回のファミリーサンデーでは、これをさがみ野教会の主日礼拝として献げています。礼拝式次第の大胆な変更なので、実は初めの頃は結構怖かったのです。しかし、教会が地域の子どもを迎えることを大切にしたいと、その点では確信も持って行っています。今朝の聖書の御言葉は、一見すると守旧派対革新派、あるいは保守対リベラルの対立のようにも見えます。しかし、あまりそういうレッテルを貼らないほうがいいかもしれません。問題は割礼です。割礼を受けると、神の民イスラエルの一員になれる。割礼を主張していた人たちはそう信じていました。ですから、異邦人でこれまで神の民でなかった人たちがイエスを信じ、神を信じるなら、喜んで迎え入れよう、神の民の一員として。そういう善意から、彼らは異邦人にも割礼を受けさせるべきだと主張していました。善意の言葉です。しかし、その善意が思わぬ結果を生むことになります。割礼という条件を満たしたものを、神は御自分の民として迎え入れてくださる。そうすると、決め手を持っているのは、神さまではなく人間の方ということになります。でも、本当にそうなのでしょうか?この会議にはいろいろな人が登場しています。例えば、ペトロはこのように言います。「神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて・・・。」あるいはパウロとバルナバは、自分たちを通して神が異邦人に行われたことを議場に報告しています。ヤコブは聖書を引用して話を進めます。つまり、彼らは皆、神が今ここで何をしておられるのかということに注目しています。異邦人は私たちと同じアイデンティティを共有しているのかとか、彼らは受け入れるにふさわしいのかとか、そういうことではなくて、神が何をしておられるのかを問題にした。それが、本当はいちばん大切なのではないでしょうか。神はこのさがみ野の地でも働いていてくださいます。私たちの周りにいる大人にも子どもにも、神は働いてくださっています。神は、今、何をしておられるのでしょう。私たちが問うべきは、その一点です。イザヤ書は、ちょっとショックを受ける言葉が登場します。神が預言者イザヤに言われます。「この民の心をかたくなにし/耳を鈍く、目を暗くせよ。目で見ることなく、耳で聞くことなく/その心で理解することなく/悔い改めていやされることのないために。」そんなことを言われて、やる意味あるのでしょうか?そもそも、人々の心を頑なにするのは、神さまなのでしょうか?ちょっと躓きます。しかし、私は思います。もしかしたら、本当は、こういう徹底した絶望こそが必要なのではないだろうか。私たちの社会を見つめるときに。神の言葉に決して耳を傾けないのです。高所から見下ろして絶望してみせるのではなく、独りよがりの「真理」に酔うのでもなく、しかし、絶望せざるを得ないのではないか。そして、それは神を見たら死ぬべき私自身の罪でもあります。私こそ一人の罪人に過ぎない。しかし、赦された罪人です。「私たちは、主イエスの恵みによって救われるのですが、これは、彼ら異邦人も同じです。」私もキリストに救って頂いた。それは、誰にとってもかけがえのない救いであり、福音です。この福音のために自分のスタイルをも新しくして頂く喜びを私たちは味わいます。   

2024年3月29日の聖句

ヤコブは、神が自分と語られた場所をベテル(神の家)と名付けた。(創世記35:15) 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、自身やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マタイ27:54) 神が自分と語られた場所をベテル(神の家...